ここから見えてくるのは、美術家と鑑賞者は、作品を提供する側とそれを享受する側といった単純な流通の関係で結ばれているのではないということだ。美術作品を一種の媒介としながらも、お互いが常に予期せぬものを受け取り合っていたのである。だから、当然のことながら彼らにとっては、催しに対して何が貢献できたかではなく、そこで出会って得たものごとが極めて重要な価値を持ってくる。
そこでは作者も観客もなく、「作品、場所(が)…既存と異なる別世界に」なり、「それは現実を生きる中で、夢を見る楽しみと成り…希望か夢をもたらせてくれる」こととなり、その希望はさらに膨らんで「全人類が未来のデザインプロセスを形成するための第一歩」へとつながってゆく。そして、個々人の期待や思惑を超えたこうした互酬関係の中で、展覧会に関わるすべての人たちが改めて「自分が地域に必要とされていると思」えたり、他の出品者から「信頼されていると感じ」ることができたのだと思われる。
ところで、この「幽ART 2004」が行われたのは大原幽学遺跡史跡公園という場所であった。大原幽学は、新たな農耕技術の導入や規律ある生活規範の指導を行うことで干潟の地を窮乏から救った江戸期の思想家であり、自治活動の推進者でもあった。
幽学はこの地に移り住むようになってから、今日の農業協同組合に相当する「先祖株組合」の設立や、水田を平均的な大きさに区分けし直す耕地整理など、さまざまな制度改革に取り組んだ(1)。もちろんそこには村人の生活を向上させようとする献身的な思いがあったことは間違いないが、それ以上に、こうした制度を完成させていくこと自体が幽学にとって自己実現を果たすための大きな目標になっていたのではないかと私には思われてならない。そしてその一方に、これらの制度改革が自分たちの利益となることを理解し、個々の実践の中で活かすことのできる民衆がいたわけである。こうした双方の主体的な接近のしあいにより、干潟周辺の土地は他に例を見ない独自の改革が成し遂げられたのであろう。
晩年、幽学は、地域における先導的な活動が全体の統制を乱したとして幕府から咎めを受け、最後には自害することとなる。しかし、幽学の功績は今でも干潟の人々に顕彰され、この史跡も地元の人たちによって手厚く保存されている。この展覧会は、こうした幽学の名にあやかり「幽ART」としたという経緯がある。
思えば「かぐや姫」というのは不思議な物語である。かぐや姫を我がものにしようと多くの人々がしのぎを削った。その対価を支払うため命がけの危険も冒した。しかし誰ひとりとしてそれを成し遂げた者はいなかった。姫は昇天の間際、哀れな翁に不死の薬を残していくが、それとて姫と交換するに足るものではなかった。
「をのが身は、この国に生まれて侍らばこそつかい給はめ」(2)とかぐや姫は言う。もしこの国に生まれていたならその身を誰かに託すこともできただろう。しかしかぐや姫は、そもそもこの世のものではなかった。帰属先のないものを人は決して交換の対象とすることはできない。
私は「幽ART 2004」を通して、展覧会というのは交換ではなく授かりの場であったことを確認した。美術というのは、おそらく永遠に誰のものにもなり得ないのだ。そして、干潟の人々が時代を超えて大原幽学から何かを受け取り続けているのも、幽学の存在がどこにも帰属しないものであったからに違いない。
あの日の親子も、たしかに何も与え合ってはいなかった。ただひたすら、周囲からの授かりものを自己の生成の糧として取り入れていた。そして「かぐや姫への贈り物」は、彼らの意図とはまったく無関係にこのような夢想を私に残していってくれた。(おわり)
注
(1)『「千葉・東総物語」シリーズ 大原幽学』鈴木映里子、2003年
(2)新井信之『竹取物語の研究本文篇』(図書出版株式会社・1944)所収の新井本の脱文・誤写を古筆断簡・流布本から補った電子テキスト(http://www.asahi-net.or.jp/~tu3s-uehr/take-txt.htm/)より引用。
本稿を執筆するにあたり下記の方々にご協力いただきました。記してお礼申し上げます。
石毛宏一、伊丹裕、金子清美、木村裕、佐久間かおる、鈴木映里子、鈴木志保子、高木美智子、西本剛巳
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