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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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五十路のチビジ
埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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スタジオ・バンクハウス
2013/06/29 (Sat)
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川越との市境にほど近い坂戸市の外れに、スタジオ・バンクハウスはある。開設当時は畑の只中だったが、今は周辺にたくさんの民家が建ち並んでいる。ここを開いたのは、彫刻家の新谷一郎と平面作家の鈴木ツトムだった。
東京藝術大学大学院に在籍していた新谷は、修了後も作品の制作が続けられる場所を探していた。新谷と同期だった鈴木は父の承諾を得て、あまり使わなくなっていた実家の農業用倉庫を紹介した。交通の便こそよくなかったが、制作に伴う騒音も気がねなく出せるため、新谷は何人かの友人とともにここを共同スタジオとして開設することにした。院を修了する直前の1982年3月のことだった。
初めは倉庫の半分を借り受けて使っていた。最低限の作業ができればよいということで、水道も引かず井戸水で間に合わせるという状況だった。鈴木の父は幅広く農業を営んでいたが、このころから徐々に耕作面積を減らし始めていたため、新たに休耕となった倉庫の裏の土地も借りられることになった。そのことで、大がかりな作業もここでやれるようになった。
開所して3年目の1985年、共に制作を行っていた新谷一郎、大島明、鶴谷恵三、宇野女宏平、青野正の5人が県立近代美術館を使い「スタジオ・バンクハウス展」を開いた。いずれも都内を中心に、個展での発表を積極的に開始していた美術家であった。その後、彼らはそれぞれに独自の表現を展開させていくことになる。全国的に広まりつつあった公共彫刻の設置事業も、その活動を強烈に後押しした。
スタジオのメンバーの数も増え空間が手狭になってきたため、それまで半分だけ使っていた倉庫の全棟を借り受けることとした。もうどこから見ても立派な彫刻スタジオだ。そこで1993年、そのお披露目を兼ねてこのスタジオを使った「スタジオ・バンクハウス展」が開かれた。併せて裏の休耕地でもさまざまな野外表現を展開させた。その後も同様のスタジオ展が1996年と2000年に開催されている。
日本の近代美術は、明治の開国とともに洋館に飾られるものとしてわが国に導入された。美術家もまた、そのような空間に置くことを想定して作品を制作した。さらに美術館ができるようになると、白い巨大な壁面をバックに作品が飾られるようになった。展示される空間の変化に伴い、美術作品は時代とともにその容貌を変化させてきたのである。
ところが1960年代あたりから、新たな傾向を求める美術家たちはそうした閉じられた空間から飛び出し、街頭などで表現を展開させるようになる。そのことで、美術鑑賞を目的としていない人々との偶然の出会いを期待したのだ。さらに1970年代に入ると、できるだけ人為の加わっていない自然環境の中での展示が増えてくる。そして1980年代から90年代にかけ、実行委員会などが主催する組織だった野外美術展が各地で開かれるようになった。
前述したように美術展示室に置かれた作品は、絵画は絵画、彫刻は彫刻といったように、周囲からの影響を受けることなく自律的に存在している。ところが、屋外を含む日常的な空間では、風雨などの物理的な条件や周辺に置かれた物品、さらにその場の持つ歴史等、さまざまな要素を勘案しながら作品を制作しなければならない。こうした抵抗を受けながら制作することで、彼らはある種の快感を得ていたように思える。そしてその背景には、周囲の景観の急激な変化に対する潜在的な違和感があったのかもしれない。
2000年代に入ってからもあいかわらず、美術館や画廊から離れた場所での展覧会が各地で開かれている。しかしそのやり方は、以前とだいぶ違ってきているように思える。かつてこうした場所で展示を行う美術家たちは、前述のように作品が置かれる空間との関わりの中で制作しようとしていた。ところが近年の傾向を見ると、空間よりも、制作のプロセスを通してそこで暮らしている人々と関わり持とうとする者が増えているのだ。
一方でそうした動きとは別に、絵画や彫刻といった従来の枠の中で、純粋に展示室の中に発表の場を求める美術家も増えてきている。しかしやはりそうした美術家たちも、かつてのようにそれを純粋な造形物として捉えるのではなく、作品の中に一種の物語性を込めようとしているように見える。つまり、鑑賞者と意思疎通するための手がかりを用意しているのだ。これらいずれの方向性も、美術という媒介を通して他者との出会いを求めるものに変わってきていると言えるだろう。
「スタジオ・バンクハウス展」は2003年、スタジオから離れて三鷹市文化センターの展示室で行われた。会場を変えた理由のひとつに、若い世代の美術家たちが野外での展示に関心を示さなくなったことがあるらしい。彼らにとって雑然とした倉庫の内装や雑草にまみれた休耕田は、すでに創作意欲を高める材料とならなくなったのだ。
今回の展示もまた、同じ市内ではあるが、坂戸市文化会館の展示室で開かれた。会場を歩きながら私は、場との関わりを感じさせる作品と自律した作品とが並行してあるように思えた。そしてこの2つの方向性は、1990年代以前に発表を始めた者とそれ以降に開始した者に大きく分かれる気がした。
作品の現れはそれが置かれる場によって変化する。そして作品が置かれる場は、美術に対する時代の要請によって変わっていく。物質文明に対する違和感から、人間関係の在り方への違和感へ。かつて空間との関係で成り立っていた美術が、今、作品を見る人間との関係に転換しているとすれば、その理由はまさにこのあたりにあるのではないか。
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* 15:28
【創発2012レポート】
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