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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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 先だってのアメリカ大統領選挙にあたり、バラク・オバマは芸術政策として「Barack Obama and Joe Biden: Champions for Arts and Culture」というマニフェストを出した。メセナ協議会による訳文が次のサイトに掲載されている。
http://www.mecenat.or.jp/news/kmknews/special_obama.pdf

 この中に「芸術家組合を創設します」という項目があり、そこに「シカゴでの調査によると、教育カリキュラム全般に芸術を組み込んだ低所得学校の生徒の方が、そうしたプログラムを持たない学校の生徒より、テストの成績が早くよくなったことが明らかになっています」という記述がある。ここで言う「シカゴでの調査」がどのようなものか非常に気になったので調べていたところ、2005年1月8日付のワシントンポスト紙に、これに関連した記事が掲載されていることがわかった。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A57870-2005Jan7.html

 内容は、小学校の授業において主要科目に図工の要素を取り入れることで効果が高まるということであり、それが直接、芸術家の雇用と結びつくものではなかった。しかし、教育と美術のあり方を考える上でさまざまな示唆を与えると思うので、その訳文を紹介する。


 教育の成功をもたらす図工

 ニック・ラブキン、ロビン・レドモンド

 ワシントンポスト、2005年1月8日(土)、A19ページ

 秋。シカゴの低所得地域にある学校の4年生は、興奮気味に注目され取り囲まれた。彼らは、作文の授業の一環として互いに肖像を描き合っている。彼らは熱中しており、壁に掲げられたたくさんの作文と絵は、学習と成果が本物であることを証している。この建物ではほとんどの教室で、図工と他の科目を関連づけながら発見の威力を示している。
 同じ日、別のシカゴの低所得者学校で、4学年の生徒たちがクラスメートへのちょっとした注意事項を読むのを椅子に座って待っている。彼らは「妹を叩かない」、「宿題をする」とつぶやく。壁に子どもたちの作品はなく、学習の形跡もない。その代わり、生徒が守るべき決まりを書いたポスターが貼られている。「自由とは何か?」と誰かが訪ねる。自由とは自己制御の賜物、という答えが暗示される。
 新たな経済は、創造性、適応性、チームワークなどの高く秩序だった技能を必要とするが、低所得地域のほとんどの学校では、学習における「基礎」的な技能や試験、規律というものを狭く捉えて執心している。生徒が退屈して学習を放棄しないよう、試験と規律とで絶え間なく追いまくる。
 前出の学校やその他いくつかの学校では、主要科目に図工を組み合わせることでさらに有効な手段となることを証明しつつある。無選抜校でありながら、近年、最高得点を達成したシカゴのエッジブルック小学校の校長は、その成功について図工を取り入れたことを挙げている。「私たちは試験の点数にマイナスの影響があるのではないかと心配していました」とダイアン・マシェジェフスキーは述べた。「しかし、現実には逆のことが起きました。」
 調査の進
行に従い、彼女の主張を裏付けるデータがもたらされている。調査23:図工の統合を行ったシカゴの学校では、人口統計学上同等の学校と比較して試験の点数が2倍の速さで上昇した。ミネアポリス・プログラムの研究では、図工の統合はすべての生徒に対する本質的な影響を示しており、特に境遇に恵まれない生徒に顕著な効果を与えている。収穫は基礎学習や点数の先にある。生徒はより考えるようになり、学習技能を高め、学ぶことに深く傾倒していく。
 この調査はまた、図工の統合によって教員が自信を持ち挑戦的になることを示している。都市部の学校について調査している著名な社会学者のカレン・シーショアは、ミネアポリス・プログラムについて「私たちが見た数多くの教師の中で、最も精力的な専門的開発実践」と呼んだ。
 図工が境界を越えて他の科目と手を結ぶとき、それは認知科学で言うところの理想的学習の条件を満たす。シカゴ大学の研究者はそれを確実でやりがいのある知的作業と呼んでいるが、この授業方式はより実用的で組織的なものを提供している。すべての教科は図工を通して目に見える学習となる。教員による生徒の評価も上がる。
 図工を統合した授業は、授業内容を自分自身の経験としばしば重ね合わせ、またグループ作業によりしばしば教室を学習共同体に変えるため、生徒は感動をもって意識を集中させる。これらの教室の変化は、学校をさらに広範な変化の階段へと進める。指導計画を柔軟に変化させることで、有意義な問いに対する関心を持続させた。父兄が学校に巻き込まれる。教師は指導者としての新たな役割を共に担う。
 こうした成功は、図工が情緒や表現だけの教科でないことを明らかにする。それらは深い認知でもある。図工は、世界に対する注意深い観察、観察や想像から得たものを心の中で描写すること、複雑なものを抽象化すること、パターンを認識し展開させること、象徴と隠喩の表現、質の判断などといった、思考を行うための道具を開発させる。科学、哲学、数学、歴史などにおいても、私たちは同じような思考のツールを使っている。そして図工の利点は、それが、社会性と情緒の発達に向けた認識の成長につながっているというところだ。生徒たちは、何を学ぶべきか、科目と生活との関係、彼らの理解力の深まり、さらに真剣に学び、そして互いに学び合うことをより深く意識する。
 学校が基礎学習に焦点を当てている限り、生徒たちは高い技能を求める経済の中での仕事に備
えることができない。学校が最低ラインの上で静かにしていることを求める限り、生徒たちは自分で考えることを学ばない。シカゴやミネアポリス、その他の実践の成功は、多くの学校や地域にとって図工の統合がすぐにでも始められることを証明した。授業の中で図工と学習を結びつけることが、基礎学習と規律への無駄な執心を超越し、関心の格差を是正して学校を幸福な場所にするための戦略であることを、調査は示しているのではないか。今こそ多くの地域と学校がこの戦略を採るときである。

 ニック・ラブキンはシカゴ・コロンビア・カレッジ芸術政策センターのエグゼクティブ・ディレクター、ロビン・レドモンドは副責任者。『絵の中にアートを置く:21世紀の教育再構成』編集。

 © 2005 ワシントンポスト社
 松永康訳

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 1990年代、経済政策の破綻により中央集権の時代が終焉を迎え、大都市を中心に展開してきた日本の美術規範は崩壊した。一方で、一部の地域では、市民や美術家などにより、少しずつ文化創生の試みが始められていた。地域固有の文化を築くためにはどうしたらよいのか。地美懇(仮称)は2000年に発足し、こうした動きを横目で見ながら、その後8年の間、討議等を通してこれからの地域文化のあり方を考えてきた。
 敗戦後、日本の美術界は美術家によって支えられてきた。彼らの献身的な努力により、世界に類のない数と量の展示活動が行われるようになった。そしてそれを追うように、美術評論家、美術記者、美術画廊、美術館等が、彼らの活動を支援するようになった。そして今日、都市の美術は、作品を作る美術家と、それを流通させる周辺の人々の共働によって機能するようになっている。
 1980年代の第三次高度経済成長期以降、行政主導による美術関連事業が華々しく行われるようになった。ところがバブル経済の崩壊以降、こうした事業は一斉に姿を消す。そうした中、横浜市では、2003年に横浜トリエンナーレを敢行し、これを契機として、市民による芸術活動を通した街の活性化が図られるようになった。そこでは、多くのフリー・キュレーターたちが現代美術を社会化させるための試みを続けている。
 一方、東京を挟んで横浜市と向きあうさいたま市にも、多くの美術家が居住している。民間主導で行われる展覧会も少なくない。しかし、それらのほとんどは美術家によって行われているため、作品を展示することが目的となり、催し自体が出品者の間で完結しているように見える。だからこそ、この地では、作品を制作していない一般市民が現代美術関連の催しに関わろうとするとき、大きな勇気と決断を必要とするのだ。こうした状況は、さいたま市の美術環境に相当の不利益をもたらしていると思われる。
 ところで、さいたま市周辺に住む美術家の多くは、これまで東京都内を主な作品の発表場所としてきた。しかし今日、収入の低下や経費の上昇により、都内で展覧会を行うことが大きな負担となってきている。さらに、国内美術市場の低迷や、マスメディアが取り上げる作品の偏向などにより、展覧会にかける労力に見合った反響が得にくくなっているのも事実だ。そのため美術家たちは、今、改めて地域に根ざした活動の必要性を感じ始めている。
 県政レベルでは、2003年に新知事が就任して以降、文化政策に対してはどちらかというと消極的な姿勢をとってきた。しかし2007年から2期目に入ったことで、少しずつ文化事業を手がける余裕が生まれつつあるように見える。地域コミュニティを活性化させるために、文化活動が極めて有効であることは旧知の事実だ。さらに、現県政が掲げる「心を守る!」というマニフェストは、健全な美術の再生を目指す活動と共通の理念を有している。
 こうした状況の中で、現代美術不毛の地であった埼玉は、今、その変革のため重要な時期にさしかかっていると言える。さまざまな立場の人々にとって、この地で美術活動を行うことの必然性が見え始めたのだ。地美懇(仮称)ではこれまで、地域における望ましい美術活動のあり方を模索してきた。ここで構築した方法論が、いよいよ実践に移される時である。

 地美懇(仮称)は2008年、発展的解消を遂げ、「チビジ」(地域の美術実践会)として新たな一歩を踏み出します。皆様方のご支援をお願いいたします。

080623 松永記 


 国家予算が破綻し、明治以来、続いてきた中央集権の時代が終わろうとしています。美術においても例外ではなく、これまで大都市で集中的に行われていた美術の評価や選別が、その単一的な規範の崩壊によって行方を見失ってきています。こうした閉塞状況の裏で、自治体や市民、美術家などを中心とした実験的な活動が、地方においてすでに始められるようになっています。そしてこれらが、地域の新たな文化ムーヴメントを生み出しつつある例も、いくつか見うけられます。今後、こうした地域における文化創成の試みが、ますます注目を浴びるようになるでしょう。
 地域における美術活動は、これまでいわゆる「美術公募団体」の人たちによって担われてきました。彼らは、作品制作のための普及活動を地道にそして献身的に行い、それぞれの地域で数多くのアマチュア美術家を養成しました。その結果、わが国は、他に例を見ない膨大な数の美術家人口を擁することとなりました。ところが、地方の美術リーダーたちも、美術家としての評価は大都市で与えられるため、地域での格づけは、常にそうした大都市での評価を反映するものでありました。こうした状況は、しばしば文化や芸術の意味を見失わせる結果をもたらしています。
 これまでは一般的にも、文化は上から下りてくるものといった誤解がありました。行政もまた、市民に文化を施せるかのような錯覚を持っていました。しかし、現実に行政にできることといえば、市民が育て守ろうとする文化を、その背後から援助することぐらいなものです。さらに、先述のように、これからは中央での評価を単純に地方が受け入れられる時代ではなくなります。そこでは、個々人が独自に評価・選別を行い、それぞれの地域ごとに固有の文化(風土的特色を持った文化という意味ではありません)を築き上げることが期待されるようになると思われます。
 文化づくりを忘れてしまったわが国において、行政がまず取り組まなければならないのは、文化を育てることのできる「人づくり」です。これこそが、おそらく今後の文化行政の中心的な仕事となってくるでしょう。そのとき、行政がブレインとして求めるのは、それまで地域に根ざした文化活動を行ってきた市民に他なりません。今、世界で何が行われ、同時代人として私たちに何ができるのか。それを市民の文化的リーダーたちが理解していなかったとしたら、文化行政はますます誤った方向に向かってしまいます。これは決して行政の責任ではなく、文化に携わるひとりひとりの市民の責任です。
 そうした意味からも、同時代的な美術活動を行っている人々が、今後の地域文化のあり方を真剣に考えなければならない時期にきているものと思われます。
 2000年5月

 発起人 松永康、柳沢敏明
 

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