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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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金沢健一さんは一貫して鉄を用いた造形表現を行っている。初め、複数の直方体を組み合わせた構成的な作品を発表していた。それと並行して、ヴォイス・パフォーマーのアベレイ(内田房江)氏らとともにしばしば身体による表現も行っていた。いずれも、自らの身体が物質や空間に対していかに関われるかを探る実験だったと言える。
1987年から六本木のストライプハウス美術館で、作曲家の吉村弘氏の企画により「サウンドガーデン」というシリーズが開始された。参加者はそこで、自分の作品を用いてパフォーマンスをするという条件が課された。金沢さんは鉄板を不定形に溶断した作品を出品し、それらの断片が発する音を聴くというパフォーマンスを行った。これが「音のかけら」の最初の発表となった。
この造形物は立体作品としての独自性を備えており、また同時に、それをひとつの音具として自分を含む他者が演奏することもできた。この表現において、それぞれ個別に行ってきた造形表現と身体表現とがみごとに融合され、独自のスタイルの音響彫刻が誕生したわけである。
1997年にこどもの城で、これまで作ってきた音響彫刻だけを集めた「音のかけら展」を開催した。会場の特性から、ここには常に多くの子どもたちが出入りしていた。そこで会期中、子どもを対象としたワークショップを行うことにした。
バーナーによる鉄の溶断は大人でも危険を伴う作業だが、金沢さんはあえて子どもたちにその技法を体験させた。鉄板を切り終えたら、それを使って音を奏でる練習へと進む。聞いたことのない音の響き、板の形によって変わる音の不思議さ。ここに参加した子どもたちの驚きと喜びが容易に想像できるだろう。
金沢さんのワークショップは手順が明確に決まっていて、システマチックに進行していくため、要領よくこなせる者とそうでない者の差が出やすい。そのため1回の講座で対応できるのは10人が限度だと言う。基本的なスケジュールとしては午前中に溶断を行い、午後、音の出し方を学ぶ。その後、音を出しながら参加者どうしでコミュニケーションを行い、音色のバリエーションを拡げてゆく。なかなか思うようにできない子もいるが、それでもみんながんばって就いてきたそうだ。
当時は、全国どこの美術館でもワークショップ・ブームで盛り上がっていた。その後、この方法論が多くの人に関心を持たれ、全国各地で展開することになるのは自然な成り行きだった。そして金沢さんが発表する作品もまた、構成的な作品と並行してこの「音のかけら」がひとつの柱となっていく。
その後、金沢さんはさまざまな美術館でワークショップを行ってきたが、どこもみんな単発で終ってしまうのが何とも心残りだった。「音のかけら」が持つ深い音の広がりのほんのさわりの部分しか体験できないのだ。同じ場所で繰り返し行うことで深まっていくものが必ずあるはずである。そこで2006年から川越市立美術館の市民ギャラリーを使い、「金沢健一「音のかけら」とワークショップ展」を独自の企画として実施することにした。
「音のかけら」を使って音を出すのは、鉄に対する触れ方を知ることだと言う。鉄の持つ質感や溶断によって現れてくる形、そしてそこに接触することで引き出される音がある。造形物は一個の作品として自律しているのだが、そこに人が関わることで物質に内包された無限の表情が立ち現われてくるのだ。これこそが人と人とのコミュニケーションの基本でもあり、金沢さんか芸術活動を通して追い求めてきたものなのだろう。
このシリーズを始めたのは、これまで行ってきたワークショップをマニュアル化することと、地元美術館との連携の可能性を探るというのが目的だった。そのため終了後は必ず記録集を作ってきた。その結果、このワークショップに参加する常連も増えてきて、美術館の恒例事業というイメージが定着してきた。しかしこれも5年間続けたことで、ほぼ所期の目的を達成した。
そこで2012年からは川越市立美術館のアートホールで、美術と音楽を結ぶ表現の可能性を探ることを目的に「音のかけらと音楽のかたち」と題した新たなシリーズを開始した。9月中の4日間を使い、作曲家やピアニスト、笙奏者等、さまざまな音楽家とともに、「音のかけら」を用いたコラボレーションや表現の実験を試みたのだ。
「音のかけら」は金沢さんのオリジナルの音響彫刻であることに違いない。だが筆者はこの演奏会を通して、すでに楽器としての完成度を充分に備えているように思えてきた。演奏者の個性に応じて、その人独自の表現を引き出す力を持っているのだ。それならばその演奏の機会は、むしろさまざまな人に対して開かれるべきでないのか。その意味で今回の試みは、「音のかけら」の新たな展開を強く予感させるものとなった。

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川越との市境にほど近い坂戸市の外れに、スタジオ・バンクハウスはある。開設当時は畑の只中だったが、今は周辺にたくさんの民家が建ち並んでいる。ここを開いたのは、彫刻家の新谷一郎と平面作家の鈴木ツトムだった。
東京藝術大学大学院に在籍していた新谷は、修了後も作品の制作が続けられる場所を探していた。新谷と同期だった鈴木は父の承諾を得て、あまり使わなくなっていた実家の農業用倉庫を紹介した。交通の便こそよくなかったが、制作に伴う騒音も気がねなく出せるため、新谷は何人かの友人とともにここを共同スタジオとして開設することにした。院を修了する直前の1982年3月のことだった。
初めは倉庫の半分を借り受けて使っていた。最低限の作業ができればよいということで、水道も引かず井戸水で間に合わせるという状況だった。鈴木の父は幅広く農業を営んでいたが、このころから徐々に耕作面積を減らし始めていたため、新たに休耕となった倉庫の裏の土地も借りられることになった。そのことで、大がかりな作業もここでやれるようになった。
開所して3年目の1985年、共に制作を行っていた新谷一郎、大島明、鶴谷恵三、宇野女宏平、青野正の5人が県立近代美術館を使い「スタジオ・バンクハウス展」を開いた。いずれも都内を中心に、個展での発表を積極的に開始していた美術家であった。その後、彼らはそれぞれに独自の表現を展開させていくことになる。全国的に広まりつつあった公共彫刻の設置事業も、その活動を強烈に後押しした。
スタジオのメンバーの数も増え空間が手狭になってきたため、それまで半分だけ使っていた倉庫の全棟を借り受けることとした。もうどこから見ても立派な彫刻スタジオだ。そこで1993年、そのお披露目を兼ねてこのスタジオを使った「スタジオ・バンクハウス展」が開かれた。併せて裏の休耕地でもさまざまな野外表現を展開させた。その後も同様のスタジオ展が1996年と2000年に開催されている。
日本の近代美術は、明治の開国とともに洋館に飾られるものとしてわが国に導入された。美術家もまた、そのような空間に置くことを想定して作品を制作した。さらに美術館ができるようになると、白い巨大な壁面をバックに作品が飾られるようになった。展示される空間の変化に伴い、美術作品は時代とともにその容貌を変化させてきたのである。
ところが1960年代あたりから、新たな傾向を求める美術家たちはそうした閉じられた空間から飛び出し、街頭などで表現を展開させるようになる。そのことで、美術鑑賞を目的としていない人々との偶然の出会いを期待したのだ。さらに1970年代に入ると、できるだけ人為の加わっていない自然環境の中での展示が増えてくる。そして1980年代から90年代にかけ、実行委員会などが主催する組織だった野外美術展が各地で開かれるようになった。
前述したように美術展示室に置かれた作品は、絵画は絵画、彫刻は彫刻といったように、周囲からの影響を受けることなく自律的に存在している。ところが、屋外を含む日常的な空間では、風雨などの物理的な条件や周辺に置かれた物品、さらにその場の持つ歴史等、さまざまな要素を勘案しながら作品を制作しなければならない。こうした抵抗を受けながら制作することで、彼らはある種の快感を得ていたように思える。そしてその背景には、周囲の景観の急激な変化に対する潜在的な違和感があったのかもしれない。
2000年代に入ってからもあいかわらず、美術館や画廊から離れた場所での展覧会が各地で開かれている。しかしそのやり方は、以前とだいぶ違ってきているように思える。かつてこうした場所で展示を行う美術家たちは、前述のように作品が置かれる空間との関わりの中で制作しようとしていた。ところが近年の傾向を見ると、空間よりも、制作のプロセスを通してそこで暮らしている人々と関わり持とうとする者が増えているのだ。
一方でそうした動きとは別に、絵画や彫刻といった従来の枠の中で、純粋に展示室の中に発表の場を求める美術家も増えてきている。しかしやはりそうした美術家たちも、かつてのようにそれを純粋な造形物として捉えるのではなく、作品の中に一種の物語性を込めようとしているように見える。つまり、鑑賞者と意思疎通するための手がかりを用意しているのだ。これらいずれの方向性も、美術という媒介を通して他者との出会いを求めるものに変わってきていると言えるだろう。
「スタジオ・バンクハウス展」は2003年、スタジオから離れて三鷹市文化センターの展示室で行われた。会場を変えた理由のひとつに、若い世代の美術家たちが野外での展示に関心を示さなくなったことがあるらしい。彼らにとって雑然とした倉庫の内装や雑草にまみれた休耕田は、すでに創作意欲を高める材料とならなくなったのだ。
今回の展示もまた、同じ市内ではあるが、坂戸市文化会館の展示室で開かれた。会場を歩きながら私は、場との関わりを感じさせる作品と自律した作品とが並行してあるように思えた。そしてこの2つの方向性は、1990年代以前に発表を始めた者とそれ以降に開始した者に大きく分かれる気がした。
作品の現れはそれが置かれる場によって変化する。そして作品が置かれる場は、美術に対する時代の要請によって変わっていく。物質文明に対する違和感から、人間関係の在り方への違和感へ。かつて空間との関係で成り立っていた美術が、今、作品を見る人間との関係に転換しているとすれば、その理由はまさにこのあたりにあるのではないか。

■ 川越画廊

川越画廊は、埼玉では浦和の柳澤画廊と並ぶ現代美術画廊の老舗である。ここを経営するのは金子勝則さんだ。柳沢画廊と同様、川越画廊もまたこれまで版画を軸に展示を行ってきた。
金子さんは1954年、富士見市に生まれ、1978年から83年まで東京にあった現代版画センターに勤務。退社後、間もなく川越の蓮馨寺近くに小さな画廊を開いた。1984年4月のことだった。都内で開業することも考えたが、川越もそこそこの都会であり、何より家賃が断然安かったのに魅かれた。当初は会場を一般に貸し出すことも考えたが、それをすると自分のやりたい展覧会の準備ができなくなることがわかり、画廊で行う展覧会は自主企画だけに絞ることとした。
最初は関根伸夫氏の個展で幕を開けた。関根氏は版画センター時代からの知り合いで、関根氏もまた金子さんが川越高校の同窓生であることを知り、さまざまに助言をしてくれた。その後もこの画廊では、現代版画センターを通して知り合った作家の作品をしばしば展示することになる。
ときには地元作家を紹介する展覧会を開くこともあったが、それらはあまり売り上げにつながらなかった。作家の知り合いがたくさん来てご祝儀も置いていってくれるのだが、なぜか作品はあまり買わない。むしろ作家を知らない人の方が買っていく。要するに作者から直接買える人たちは、わざわざ画廊を通して買おうとはしないのだ。そういう基本的なことも少しずつわかってきた。
ところで川越には、1975年から活動を続けている「川越ペンクラブ」というのがあり、そこが市内の有識者の集まりとなっていた。開廊して間もないころ、この画廊がクラブの人たちの溜り場になったこともある。彼らとの雑談を通して、金子さんは川越の文化や人のつながりについて多くを学んだ。そこで得た知識が、この地で事業を続けていくための重要な基盤となったのだ。
「川越蔵の会」もまた金子さんが画廊を開いたころ結成された団体だ。この会は、老朽化していた川越の蔵造りを再生させることで、川越の街興しを図ろうとしていた。彼らの活動によりその後、画廊周辺の蔵まち通りは一新され、川越は「蔵の街」として全国的に知られるようになった。こうした川越の変遷とともに、金子さんもまた独自の画廊の色を作り上げていったのだろう。
画廊と一言で言っても、そこにはさまざまな運営のしかたがある。金子さんの第一のモットーは「借金をしない」ことだという。これまで多くの美術家と関わる中で、彼らの作品をコツコツと収集し続けてきた。いわゆるマーケット・タイプの作家は扱わないが、コレクター向きの作品のストックは相当なものらしい。だから初めて見た作品であっても、コレクター向きかどうかすぐにわかるという。こうした資産を活かして、近年はネット・オークションでの販売にも力を入れているそうだ。
敗戦後、日本には富裕層と呼ばれる人たちがいなくなり、財産はすべて会社の持ち物となった。だから嗜好品と言われる美術品には、なかなかお金が回らなくなった。しかし動くお金には限界があっても、人だけは動き続けている。その「人」こそが本当の財産だと、金子さんは断言する。
川越画廊は1995年に現在の場所に移った。川越は、古くから変わらぬ人の結びつきがある一方で、変化に俊敏に対応することのできる機動力を兼ね備えている。変化する力と変わらない力。その併存が川越の魅力であり、強さなのかもしれない、そして、その相違える2つの力をしなやかに結びつける新たなものの見方を提示することが、川越で求められる美術の意義なのではないか。

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