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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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石津けんじ北本市長が落選した。敗因は、昨年12月に行われた高崎線の新駅開設に対して信任を問う住民投票だったようだ。この住民投票では反対票が賛成票の3倍を超え、市長に対する信頼が大きく崩れた形となった。その結果として、反対派の先頭に立って運動を展開した現王園たかあき氏の当選が確定した。

そもそも石津市長は、「北本市を有名に」をモットーに市政に出た人である。その皮切りとして始めたのが「アートによる街おこし」であった。「大地の芸術祭」のようなアート・プロジェクトがやりたいということで調査を開始し、最終的に熊倉純子氏や森司氏に協力を依頼して「北本ビタミン(キタミン)」プロジェクトが行われることになった。

このプロジェクトのために市外から数人の若い美術家が集められ、杮落しとして日比野克彦氏による「明後日朝顔プロジェクト」が行われた。そして翌年には、日比野氏が副理事長を務める「日本文化デザイン会議」が北本で開かれることになった。

通常、同会議は年ごとに開催地を変えて行われるが、北本では特例として3年連続での開催(2011年は「日本文化デザインフォーラム」と改称)となった。一説によると1回に3000万円ほどかけるようなので、3年で9000万の予算規模だ。このうちどれほどを市で負担したのかは不明だが、それにしても相当の予算と労力がこの事業につぎ込まれたことになる。

ここでは地元でいくつかのアート・イベントを行う他、各界の著名人を集めたさまざまなシンポジウムが開かれた。しかしながら、アート・イベントは北本に来たばかりの「キタミン」のメンバーに任され、シンポジウムのパネリストもまた市長を除きすべて市外の人たちという構成であった。市外の美術家が市民と創作活動を行い、市外の著名人が北本について話し合ったわけである。私から見るとこれはとても奇妙な光景だった。

この一大イベントも終了し、北本にはまた元の静けさが戻ってきた。市長ももう「アートによる町おこし」には関心がなくなったようだった。あの時に使われたお金は、すべて東京の人たちが持っていってしまったのだろう。新駅の開設案が発表されたのは、まさにそんなときだった。

現職の市長が落選するというのは、今の日本ではあまり耳にしないことだ。しかしこうして振り返ってみると、今回の選挙で対立候補が当選したのは自然な成り行きだったようにも思える。私が知っている北本市民の中で「北本を有名に」したいと思っている人は、残念ながら1人もいないからだ。

「キタミン」は今、市の管理から離れて独自の活路を模索し始めたようだ。たぶんこれからは、余計なことに振り回される心配もないだろう。一方で、彼らの活動を地道に支えてきた人たちが少なからずいるはずだ。彼らにとっては、この土地で美術を生み出していくための基盤がようやく整ったということなのかもしれない

 

 

関連項目:

「北本アーツキャンプ」に参加してきた(その1)

「北本アーツキャンプ」に参加してきた(その2)

「北本アーツキャンプ」に参加してきた(その3)

 

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 アートギャラリー呼友館は2009年、懐石料理店「いも善」の敷地内に正式オープンした。前年から仮オープンしていたが、そのときは社長である神山正久氏のコレクションを展示していた。以前ここは、「サツマイモ資料館」としてさつまいもに関する内外の資料を展示していた。しかし開設されて20年経ち、とりあえず所期の目的を達成したということで、収集した資料はすべて市立博物館に寄贈され、改めて美術専用の施設として再開されたというわけである。

呼友館の運営を行っているのは篠田正治さんだ。長く三越の美術部に勤務していた人で、顧客として神山氏と懇意にしていたそうだ。そこで神山氏は、新たにできる美術展示施設の運営を任せたいと打診した。篠田さんもまたそのころ、ちょうど定年を迎える時期となっていた。

篠田さんは、これまでやってきた仕事とはまったく違うアプローチでここを運営したいと思った。まず作品を売ることは目的としない。そうではなく、作品や作家を介して美術を楽しむ場所にしたかった。そのことで、地域で育まれる縁を大切にしようとしたのだ。このように友が友を呼ぶような場所になることを願って、ここを「呼友館」と名づけた。

ここでは1つの企画を2か月間かけて行い、年45回のペースで展覧会を開いている。出品者の選定に関しては、とにかくよい作家を紹介していくことを心がける。開幕展は、二紀会委員で埼玉大学教授でもある吉岡正人氏の個展だった。絵画系の展示がどうしても多くなるが、彫刻作品の紹介にも力を入れており、2010年には芸術院会員である市村緑郎氏の家族展も行った。

私が訪れたときは、「CONTEMPORARY ART NOW 川越Ⅱ」という現代美術系の展覧会だった。川越ゆかりの出品者が多かったが、たまたまこのような顔ぶれになったそうだ。川越には美術に関心を持つ人が少なくないが、土地柄からか、どうしてもその対象作家も地域限定になりやすい。展覧会を見に来てほしいのは地元の人であるが、出品者を選ぶときはできるだけ地域を限定しないようにしているそうだ。

ここは基本的に作品を見てもらう場所であるが、展覧会を行ううち、出品者もけっこう展示を楽しんでいることがわかってきた。部屋の間取りがバラバラなので、それぞれの空間の特徴に合わせて工夫しながら作品を配置していかなければならない。そのことで、作者自身が自作を用いてさまざまな見せ方を実験しているようなのだ。そしてそうした作者の工夫や試みは、当然のことながら、見る側を楽しませるための付加価値ともなってくる。

今日、美術家にとって厳しい時代となった。そんな中でも、少しでもよい環境で経験を積んでいってもらうことが願いだと篠田さんは話していた。

 

 


2013822日、藤圭子が他界した。いちども会ったことのない人なのだが、心の奥にできた空洞をなぜかしばらくの間、消すことができなかった。
五木寛之は藤の歌を聞き、「怨歌」の誕生と言い切ったという。地の底から湧き出るような呪いの節に、忘れがたいうらみの情念を感じるのは自然な感覚である。しかし私には、うらみはうらみでもそこにあるのは「怨」ではなく、むしろ「恨」のうらみのように思えてならなかった。他者に対する怨念ではなく、自己へと向かう悔恨の情である。
藤の代表曲と言えば「新宿の女」と「圭子の夢は夜ひらく」だろう。「新宿の女」では、「私が男になれたなら 私は女を捨てないわ ネオン暮らしの蝶々には 優しい言葉が染みたのよ 馬鹿だな 馬鹿だな 騙されちゃって 夜が冷たい新宿の女」と歌われる。演歌の中でも、これほどうらみの矛先が自分自身に向けられるものもあまりない。こうしたうらみの在り様は、韓国の国民性とされる「恨(ハン)」の心性にも通じるものだ。
また「圭子の夢は夜ひらく」では、「赤く咲くのは芥子の花 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのさこの私 夢は夜ひらく/十五十六十七と 私の人生暗かった 過去はどんなに暗くても 夢は夜ひらく」となる。これを園まりの「夢は夜ひらく」と比べると、事はさらに明白だ。「雨が降るから会えないの 来ないあなたは野暮な人 濡れてみたいわ二人なら 夢は夜ひらく/うぶなお前がかわいいと 言ったあなたは憎い人 いっそ散りたい夜の花 夢は夜ひらく」。園版ではその憎しみがストレートに相手に向かっていくのに対し、藤版では一貫して自分自身へと跳ね返ってくる。
こうした場面設定には、自分を傷つけているはずの他者の存在を希薄化させるという効果が見られる。そしてある種、自閉的な世界観を構築していく。他者の介入を遮断することで自分自身を守ろうとする、無意識の自己防衛本能がそこに立ち現われてくるのだ。あの無表情でデジタルな顔つきは、その効力をさらに高めていた。
学生運動はその後、政治権力との戦いから身内どうしの内ゲバへと転化し、醜悪な自滅の道を歩んでいった。一方で早々とサラリーマン生活を選んだ若者たちは、人間関係を希薄化させながら経済大国へと邁進していくことになる。80年代以降、全国的に広まるマックの店員たちの虚無的な笑顔は、この時代を象徴するコミュニケーション・ツールとなった。そして最終的に、酒鬼薔薇聖斗のように自分自身をも「透明な存在」へと昇華させながら、世紀の終末へと突き進んでいったのである。
一から十まで 馬鹿でした 馬鹿にゃ未練はないけれど 忘れられない奴ばかり 夢は夜ひらく 夢は夜ひらく…
私の心に染み着いていた藤圭子の呪いが、ようやく今、溶け始めている気がする。

金沢健一さんは一貫して鉄を用いた造形表現を行っている。初め、複数の直方体を組み合わせた構成的な作品を発表していた。それと並行して、ヴォイス・パフォーマーのアベレイ(内田房江)氏らとともにしばしば身体による表現も行っていた。いずれも、自らの身体が物質や空間に対していかに関われるかを探る実験だったと言える。
1987年から六本木のストライプハウス美術館で、作曲家の吉村弘氏の企画により「サウンドガーデン」というシリーズが開始された。参加者はそこで、自分の作品を用いてパフォーマンスをするという条件が課された。金沢さんは鉄板を不定形に溶断した作品を出品し、それらの断片が発する音を聴くというパフォーマンスを行った。これが「音のかけら」の最初の発表となった。
この造形物は立体作品としての独自性を備えており、また同時に、それをひとつの音具として自分を含む他者が演奏することもできた。この表現において、それぞれ個別に行ってきた造形表現と身体表現とがみごとに融合され、独自のスタイルの音響彫刻が誕生したわけである。
1997年にこどもの城で、これまで作ってきた音響彫刻だけを集めた「音のかけら展」を開催した。会場の特性から、ここには常に多くの子どもたちが出入りしていた。そこで会期中、子どもを対象としたワークショップを行うことにした。
バーナーによる鉄の溶断は大人でも危険を伴う作業だが、金沢さんはあえて子どもたちにその技法を体験させた。鉄板を切り終えたら、それを使って音を奏でる練習へと進む。聞いたことのない音の響き、板の形によって変わる音の不思議さ。ここに参加した子どもたちの驚きと喜びが容易に想像できるだろう。
金沢さんのワークショップは手順が明確に決まっていて、システマチックに進行していくため、要領よくこなせる者とそうでない者の差が出やすい。そのため1回の講座で対応できるのは10人が限度だと言う。基本的なスケジュールとしては午前中に溶断を行い、午後、音の出し方を学ぶ。その後、音を出しながら参加者どうしでコミュニケーションを行い、音色のバリエーションを拡げてゆく。なかなか思うようにできない子もいるが、それでもみんながんばって就いてきたそうだ。
当時は、全国どこの美術館でもワークショップ・ブームで盛り上がっていた。その後、この方法論が多くの人に関心を持たれ、全国各地で展開することになるのは自然な成り行きだった。そして金沢さんが発表する作品もまた、構成的な作品と並行してこの「音のかけら」がひとつの柱となっていく。
その後、金沢さんはさまざまな美術館でワークショップを行ってきたが、どこもみんな単発で終ってしまうのが何とも心残りだった。「音のかけら」が持つ深い音の広がりのほんのさわりの部分しか体験できないのだ。同じ場所で繰り返し行うことで深まっていくものが必ずあるはずである。そこで2006年から川越市立美術館の市民ギャラリーを使い、「金沢健一「音のかけら」とワークショップ展」を独自の企画として実施することにした。
「音のかけら」を使って音を出すのは、鉄に対する触れ方を知ることだと言う。鉄の持つ質感や溶断によって現れてくる形、そしてそこに接触することで引き出される音がある。造形物は一個の作品として自律しているのだが、そこに人が関わることで物質に内包された無限の表情が立ち現われてくるのだ。これこそが人と人とのコミュニケーションの基本でもあり、金沢さんか芸術活動を通して追い求めてきたものなのだろう。
このシリーズを始めたのは、これまで行ってきたワークショップをマニュアル化することと、地元美術館との連携の可能性を探るというのが目的だった。そのため終了後は必ず記録集を作ってきた。その結果、このワークショップに参加する常連も増えてきて、美術館の恒例事業というイメージが定着してきた。しかしこれも5年間続けたことで、ほぼ所期の目的を達成した。
そこで2012年からは川越市立美術館のアートホールで、美術と音楽を結ぶ表現の可能性を探ることを目的に「音のかけらと音楽のかたち」と題した新たなシリーズを開始した。9月中の4日間を使い、作曲家やピアニスト、笙奏者等、さまざまな音楽家とともに、「音のかけら」を用いたコラボレーションや表現の実験を試みたのだ。
「音のかけら」は金沢さんのオリジナルの音響彫刻であることに違いない。だが筆者はこの演奏会を通して、すでに楽器としての完成度を充分に備えているように思えてきた。演奏者の個性に応じて、その人独自の表現を引き出す力を持っているのだ。それならばその演奏の機会は、むしろさまざまな人に対して開かれるべきでないのか。その意味で今回の試みは、「音のかけら」の新たな展開を強く予感させるものとなった。


川越との市境にほど近い坂戸市の外れに、スタジオ・バンクハウスはある。開設当時は畑の只中だったが、今は周辺にたくさんの民家が建ち並んでいる。ここを開いたのは、彫刻家の新谷一郎と平面作家の鈴木ツトムだった。
東京藝術大学大学院に在籍していた新谷は、修了後も作品の制作が続けられる場所を探していた。新谷と同期だった鈴木は父の承諾を得て、あまり使わなくなっていた実家の農業用倉庫を紹介した。交通の便こそよくなかったが、制作に伴う騒音も気がねなく出せるため、新谷は何人かの友人とともにここを共同スタジオとして開設することにした。院を修了する直前の1982年3月のことだった。
初めは倉庫の半分を借り受けて使っていた。最低限の作業ができればよいということで、水道も引かず井戸水で間に合わせるという状況だった。鈴木の父は幅広く農業を営んでいたが、このころから徐々に耕作面積を減らし始めていたため、新たに休耕となった倉庫の裏の土地も借りられることになった。そのことで、大がかりな作業もここでやれるようになった。
開所して3年目の1985年、共に制作を行っていた新谷一郎、大島明、鶴谷恵三、宇野女宏平、青野正の5人が県立近代美術館を使い「スタジオ・バンクハウス展」を開いた。いずれも都内を中心に、個展での発表を積極的に開始していた美術家であった。その後、彼らはそれぞれに独自の表現を展開させていくことになる。全国的に広まりつつあった公共彫刻の設置事業も、その活動を強烈に後押しした。
スタジオのメンバーの数も増え空間が手狭になってきたため、それまで半分だけ使っていた倉庫の全棟を借り受けることとした。もうどこから見ても立派な彫刻スタジオだ。そこで1993年、そのお披露目を兼ねてこのスタジオを使った「スタジオ・バンクハウス展」が開かれた。併せて裏の休耕地でもさまざまな野外表現を展開させた。その後も同様のスタジオ展が1996年と2000年に開催されている。
日本の近代美術は、明治の開国とともに洋館に飾られるものとしてわが国に導入された。美術家もまた、そのような空間に置くことを想定して作品を制作した。さらに美術館ができるようになると、白い巨大な壁面をバックに作品が飾られるようになった。展示される空間の変化に伴い、美術作品は時代とともにその容貌を変化させてきたのである。
ところが1960年代あたりから、新たな傾向を求める美術家たちはそうした閉じられた空間から飛び出し、街頭などで表現を展開させるようになる。そのことで、美術鑑賞を目的としていない人々との偶然の出会いを期待したのだ。さらに1970年代に入ると、できるだけ人為の加わっていない自然環境の中での展示が増えてくる。そして1980年代から90年代にかけ、実行委員会などが主催する組織だった野外美術展が各地で開かれるようになった。
前述したように美術展示室に置かれた作品は、絵画は絵画、彫刻は彫刻といったように、周囲からの影響を受けることなく自律的に存在している。ところが、屋外を含む日常的な空間では、風雨などの物理的な条件や周辺に置かれた物品、さらにその場の持つ歴史等、さまざまな要素を勘案しながら作品を制作しなければならない。こうした抵抗を受けながら制作することで、彼らはある種の快感を得ていたように思える。そしてその背景には、周囲の景観の急激な変化に対する潜在的な違和感があったのかもしれない。
2000年代に入ってからもあいかわらず、美術館や画廊から離れた場所での展覧会が各地で開かれている。しかしそのやり方は、以前とだいぶ違ってきているように思える。かつてこうした場所で展示を行う美術家たちは、前述のように作品が置かれる空間との関わりの中で制作しようとしていた。ところが近年の傾向を見ると、空間よりも、制作のプロセスを通してそこで暮らしている人々と関わり持とうとする者が増えているのだ。
一方でそうした動きとは別に、絵画や彫刻といった従来の枠の中で、純粋に展示室の中に発表の場を求める美術家も増えてきている。しかしやはりそうした美術家たちも、かつてのようにそれを純粋な造形物として捉えるのではなく、作品の中に一種の物語性を込めようとしているように見える。つまり、鑑賞者と意思疎通するための手がかりを用意しているのだ。これらいずれの方向性も、美術という媒介を通して他者との出会いを求めるものに変わってきていると言えるだろう。
「スタジオ・バンクハウス展」は2003年、スタジオから離れて三鷹市文化センターの展示室で行われた。会場を変えた理由のひとつに、若い世代の美術家たちが野外での展示に関心を示さなくなったことがあるらしい。彼らにとって雑然とした倉庫の内装や雑草にまみれた休耕田は、すでに創作意欲を高める材料とならなくなったのだ。
今回の展示もまた、同じ市内ではあるが、坂戸市文化会館の展示室で開かれた。会場を歩きながら私は、場との関わりを感じさせる作品と自律した作品とが並行してあるように思えた。そしてこの2つの方向性は、1990年代以前に発表を始めた者とそれ以降に開始した者に大きく分かれる気がした。
作品の現れはそれが置かれる場によって変化する。そして作品が置かれる場は、美術に対する時代の要請によって変わっていく。物質文明に対する違和感から、人間関係の在り方への違和感へ。かつて空間との関係で成り立っていた美術が、今、作品を見る人間との関係に転換しているとすれば、その理由はまさにこのあたりにあるのではないか。

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