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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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昨年の11月、川越の蔵づくり家屋を使って「蔵と現代美術-響きあう空間-展」が行われた。その記録集に雑感を掲載したので転載させていただく。


私たちが生活する場には、歴史の中で刻まれてきた記憶がある。そして美術家は、作品が置かれる場の記憶を探し出し、同時代の視点によって形を与えてゆく。私たちはそこに出現した思いもよらぬ造形物を通して、その場が秘めていた別な一面を垣間見ることになる。言い換えれば、美術作品がそこをひとつの演劇的な空間に変えたのである。
 
川越は蔵造りの街として全国的に知られている。実は本来の川越の街並みは、明治期に起った大火によりその大半を失った。しかし、焼失を免れた建物が伝統的な土蔵造りだったことから、後の復興に当たり人々は競って土蔵造りを採用するようになる。そのことで今日の川越の街並みが形成されたのだ。さらに大戦中も砲火を逃れたため、この街並みはそのまま生き残った。
そして1971年、江戸期に建てられた大沢家住宅が国から重要文化財の指定を受け、さらに旧小山家を市が買い取り蔵づくり資料館として公開するようになる。こうした中で、市民の間でも蔵の重要性が認識されるようになり、その後、さまざまに展開した市民運動の力によって川越の蔵造り商店街は全国的に知られるようになったわけだ。
その川越の蔵造りの建造物を使い、現代美術作品の展示会が行われた。そこでは店舗や住居、物置や中庭といった多様な空間の中で展示が展開された。和室に立てられた屏風型の作品は何十年も前からそこにあったように佇み、屋根裏部屋に並べられた樹皮のオブジェは何ものかを鎮魂するように浮かび上がっていた。作品は決して具体的な意味を示しているわけではない。それにもかかわらずそれらは、置かれた場と呼応しながら見る者の中でさまざまな物語を醸成させていたのだ。(つづく)

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戦後の日本では数多くの美術家団体が結成された。団体に所属する美術家たちは中央での団体展と並行して、自らが住まう地域においても県展や市展といった地方展の運営を行ってきた。さらに美術教育にも携わり、地域の学生や生徒たちに作品の制作指導を行っていた。地域に密着したこうした地道な活動は、わが国に数多くの美術愛好家を育成することとなった。
一方で1970年代に入ると、画廊での個展を中心に発表活動を行う美術家が増えてくる。彼らは中央で評価を得るようになると、その後、地方に戻ることなく海外での活動へと展開していった。その結果、国際的に活躍する美術家が近所に住んでいても、その存在がほとんど知られていないという状況が起きてくる。今日の美術が人々の関心を集めなくなった大きな理由として、こうした背景があるように思われる。
本展はではこれまで、この後者に当たるいわゆる個展系の美術家を紹介してきた。そのことで、個展系の美術家が地域に根差した活動を行うための方法を模索してきたのである。しかしその実践を通して、それを実現させることの難しさをひしひしと感じるようになった。そこで改めて、これまでこうした活動を実際に行ってきた団体展系の美術家とともに、その方法論や今後の展望について意見交換を行うこととした。
パネリストとして団体展系から、久喜市文化協会会長の齋藤馨氏、県北地域の美術教育を牽引してきた中島睦雄氏、団体展と並行して個展での発表を続けている本多正直氏が参加した。また個展系からは、本展出品者の小高、小林、野原が出席し、筆者が司会を行った。
彼らの発言を通して、団体展系の美術家が主に作品を作る者どうしの輪を拡げてきたのに対し、個展系は美術家以外の人たちと関係を持つことに意を用いていることが見えてきた。意見交換を終えて感じたのは、美術を地域に根づかせるためには美術家がそれぞれの持ち場でできることをやっていくしかないということ、そして利益を共にすることについては立場の違いを超えて協力し合わなければならないということだった。

「現代美術展<分岐点>」も始まって3年目となった。当初から3回の開催を目指してスタートしたため、同展はとりあえず今回で閉幕することとなる。これで完全に終了するのか、もしくはまた何か別な形で再開するのか、まだ決まっていない。いずれにしてもこの3年間、本展開催のためご協力いただいた多くの方々に心から感謝を申し上げる次第である。
美術はこれからもなくならないし、作品を作る人も絶えることはないだろう。ただ、その在り方が大きく変わる時期にきていることだけはたしかだ。すべてのことにおいて、国で決められた基準を地方が受け入れるのではなく、地方がそれぞれに独自の価値を創造していく時代となったからだ。将来、埼玉県東北部において美術が人々をつなぐ力を再生させたとき、その変化にこの「現代美術展<分岐点>」がわずかでも加担できたとすれば、私たちにとってそれ以上の喜びはない。(おわり)

『現代美術展<分岐点>2011記録集』(2012.2.29、身近で現代美術を見る会)より


1990年代中ごろより、美術の学習指導要領の中で作品鑑賞が大きな比重を持つようになった。しかし美術館のない地域では、作品鑑賞を行う機会は極めて限られる。そこで今、地域で活動する美術家の存在が改めて注目されるべきだろう。本展では、学校からのこうした要請にもできるだけ応えていきたいと考えてきた。
昨年は、会場に近い久喜市立栗橋西小学校と栗橋東小学校の美術部の生徒に来てもらい、会場でワークショップを行った。このときはまったく予算がなかったため、同校教師の指導で行われるワークショップに生徒と出品作家がいっしょに参加するという苦肉の策をとった。そして今年は、昨年参加した2校の教師や埼玉県東部教育事務所からの働きかけにより、さらに久喜市立鷲宮東、久喜東、白岡町立白岡南の各中学校の美術部の生徒たちも参加してくれることになった。
一方で、久喜市立栗橋西小学校には「西小おやじの会」がある。「おやじの会」というのは、父親も教育現場に参加しようという流れの中で、小学校ごとに組織されるようになった任意団体だ。
西小おやじの会では以前から「現代美術展<分岐点>」に関心を持ってくれており、今年は同展を利用して何か催し物をやろうということになった。展覧会の会期中、出品者に講師になってもらい、子どもたちの参加するワークショップができないかというのだ。埼玉県の文化振興基金で今年度から「子どもの文化芸術体験事業」枠が新設され、その助成金も受けられることになった。それならばいっそのこと、中学生のワークショップもそこでいっしょにやったらどうかと話は広がっていった。
当初は1つのワークショップを実施して、協力してくれる出品者に講師になってもらうということで計画していた。しかしこうした状況の変化を受け、講師にそれぞれ自らのワークショップを考えてもらい、それらを同時に並行して実施することとした。希望者は、その場でやってみたいワークショップを選んで参加する。午前と午後2回実施するので、最大2回まで体験することができるというわけだ。
この「分岐点ワークショップ・バザール」は9月17日に実施され、延べ74名の参加者を得ることができた。講師はそれぞれ自らの作品の近くに会場を設えて行った。作業を通して参加者たちは、講師の作品の意味するものを知らず知らずのうちに内面化させていったのではないか。
小高は木製の玉に祈りの絵を描いてゆく。杉﨑は透明シートに相反するイメージを描かせ、最後にそれらを重ね合わせる。タムラはカラーブロックを渡し100グラムの造形を行う。林は大きな紙に参加者とともにドローイングを行う。そして午後の部の最後に、小高のワークショップで作ったすべての玉を紐で結び、全員でそれを廻しながら震災被災地の早期復興を願った。
終了後、「分岐点ワークショップ・バザール」の実施状況について、昨年同様、埼玉県東部教育事務所の内田十詩哉氏がレポートを寄せてくれた。中学校から提供された生徒の感想文に次のような一文があった。「私は今までは、埼玉県内に芸術家がいるということを、日常の中で考えたことがありませんでした。でも今回、この美術展に来て、様々なジャンルの芸術家がいることを知りました。」この言葉から本事業の目的が参加者に伝わっていることを確認でき、とても嬉しく思った。(つづく)

2011年9月17日、「現代美術展<分岐点>2011」が開幕した。今回は小高一民、小林晃一、杉﨑正則、タムラサトル、野原一郎、林恭子の6人が出品した。会場は昨年同様、いきいき活動センターしずか館の体育館と校舎内の会議室2室を使用して行われた。小高、タムラ、野原、林の4人が体育館を使い、小林と杉崎がそれぞれ101会議室、102会議室で展示した。
体育館に入るとまず手前中央に小高の立体作品が置かれている。FRPで作られたメタリックな外装だ。後ろに紐がついているのでパソコンのマウスのようにも見えるが、実はこれは人の精子の形態を巨大化させたものらしい。上部には小さな蓋が付いており、その中からたくさんの粒々が覗いている。われわれの文化情報もまた、遺伝子と同じように過去から未来へと伝えられていくのだろう。
小高の作品の背景の壁には、野原の絵画が3点立ち並んでいる。抽象的な形態は今までと変わらないが、中央を横切る線によってすべての画面が上下に分けられた。そのため、1点1点は異なる色合いで描かれているにもかかわらず、全体を貫く水平線によって統一感がもたらされた。また今回は、色調が全体に深みを帯びたため、壁から浮かして展示してあるにもかかわらず、茶色の背景にしっくりと納まって見えた。
体育館のステージとその手前の床には3本の釣竿が立ち並ぶ。タムラサトルの作品だ。それらには電動リールが付いていて、滑車のある鉄の構造物を目に見えないくらいの速さで引き上げている。構造物は斜面のレールを登ってゆき、あるところまで来るとリールが外れて転がり落ちる。そして会場内にガシャーンという音が鳴り響く。多くの人は、そこで初めてこの作品の働きに気づくのだ。
体育館の北側の壁には林恭子の平面作品が吊り下げられた。巨大な紙に淡い色調で日常的な情景が描かれている。体育館の扉から入ってきた風は、それらの表面を軽く揺らしながら通り過ぎる。風は外から来たのか、それとも作品の内にあるのか。画面の細部を見ているうち、それもわからなくなるほど意識は現実の世界から遠ざかってゆく。
体育館を出て校舎に移ると、102会議室に杉崎正則の写真作品が並ぶ。杉崎は蓮田出身だが、現在は宮城県角田市に住んでいる。福島第一原子力発電所から60キロ圏内に位置するため、今でも不安な毎日を余儀なくされている。ものごとには必ず良い面とそうでない面がある。今回の展示では、放射線の研究を進展させた6人の科学者の肖像を、近辺の風景の映像に重ね合わせて作品化した。
最後の101会議室には小林晃一の彫刻作品が置かれた。そこに登場するカバやペリカンやカタツムリはすべて何らかの関連の中で結ばれており、決して自立してはいない。さらにそれらは木と石と金属で作られているが、それらの素材もまた自然のサイクルの中で変質しながら形成されたものだ。こうした大きな流れの中で生きていることを、小林の作品は何気なく私たちに思い出させてくる。
作品を見終わったあとの混沌とした想いも、言葉にし互いに交換することでそれぞれの記憶の網の中に納まっていく。今年も最終日には、昨年同様に友山邦雄氏による利き茶のサービスが行われた。茶の種類や特徴から始まり、そこに居合わせた人の間で緩やかに作品のことへと話が進む。どんなに良いものに出会ったとしても、その良さが共有されなければ価値あるものとはならないのだ。(つづく)

昨年、「創発」参加事業を含め、埼玉県内で行われたいくつかの展覧会に協力した。そこで作られたパンフレット等に掲載した文章を転載する。
 
  
「現代美術展<分岐点>」が始まって今年で3回目となった。本展の実施主体は昨年まで「現代美術展<分岐点>実行委員会」であったが、本年からその名称を「身近で現代美術を見る会」と変えた。当会はそもそも展覧会を行うために結成した団体であったが、事業を継続するうち、展覧会の協力者や他の文化団体、また学校での美術教育等、地域と関わるためのいくつかの糸口が見えてきた。そこで今後は、事業を展覧会に特化するのではなく、美術を通して地域との関わりを深めることへとシフトさせていく必要が生じた。そのために、現代美術に関して多様な事業を展開できるような団体名へと改称したわけである。
また今回は、久喜市の市民活動推進補助事業として助成金を受けられることになった。同補助事業は、様々なコミュニティを通して地域や社会のために行う市民活動に対して支払われるものだ。市の合併に伴って昨年は休止されていたが、今年度から再開されたそうだ。この助成を受けたことで経済的な負担が軽減され、新たな関連事業を加えることもできた。なお、昨年度は久喜市教育委員会との共催事業として実施されたが、この助成を受けることになったため本年度は会による単独主催とした。
昨年はボランティアの協力者を対象に、出品者から制作意図等の話を聞く研修会を行った。それに代えて今年は、出品者が首都周辺で実施する展覧会の見学会を実施することにした。今日の美術家の多くは、首都の画廊で定期的に行う展覧会を主たる発表場所としている。それらの展覧会を見学することで、「分岐点」に出品している美術家のもうひとつの顔を知ってもらうというのが狙いだった。また併せて、そのことで協力者間の親睦を深めることも企図していた。(つづく)



 
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