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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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■ 川越画廊

川越画廊は、埼玉では浦和の柳澤画廊と並ぶ現代美術画廊の老舗である。ここを経営するのは金子勝則さんだ。柳沢画廊と同様、川越画廊もまたこれまで版画を軸に展示を行ってきた。
金子さんは1954年、富士見市に生まれ、1978年から83年まで東京にあった現代版画センターに勤務。退社後、間もなく川越の蓮馨寺近くに小さな画廊を開いた。1984年4月のことだった。都内で開業することも考えたが、川越もそこそこの都会であり、何より家賃が断然安かったのに魅かれた。当初は会場を一般に貸し出すことも考えたが、それをすると自分のやりたい展覧会の準備ができなくなることがわかり、画廊で行う展覧会は自主企画だけに絞ることとした。
最初は関根伸夫氏の個展で幕を開けた。関根氏は版画センター時代からの知り合いで、関根氏もまた金子さんが川越高校の同窓生であることを知り、さまざまに助言をしてくれた。その後もこの画廊では、現代版画センターを通して知り合った作家の作品をしばしば展示することになる。
ときには地元作家を紹介する展覧会を開くこともあったが、それらはあまり売り上げにつながらなかった。作家の知り合いがたくさん来てご祝儀も置いていってくれるのだが、なぜか作品はあまり買わない。むしろ作家を知らない人の方が買っていく。要するに作者から直接買える人たちは、わざわざ画廊を通して買おうとはしないのだ。そういう基本的なことも少しずつわかってきた。
ところで川越には、1975年から活動を続けている「川越ペンクラブ」というのがあり、そこが市内の有識者の集まりとなっていた。開廊して間もないころ、この画廊がクラブの人たちの溜り場になったこともある。彼らとの雑談を通して、金子さんは川越の文化や人のつながりについて多くを学んだ。そこで得た知識が、この地で事業を続けていくための重要な基盤となったのだ。
「川越蔵の会」もまた金子さんが画廊を開いたころ結成された団体だ。この会は、老朽化していた川越の蔵造りを再生させることで、川越の街興しを図ろうとしていた。彼らの活動によりその後、画廊周辺の蔵まち通りは一新され、川越は「蔵の街」として全国的に知られるようになった。こうした川越の変遷とともに、金子さんもまた独自の画廊の色を作り上げていったのだろう。
画廊と一言で言っても、そこにはさまざまな運営のしかたがある。金子さんの第一のモットーは「借金をしない」ことだという。これまで多くの美術家と関わる中で、彼らの作品をコツコツと収集し続けてきた。いわゆるマーケット・タイプの作家は扱わないが、コレクター向きの作品のストックは相当なものらしい。だから初めて見た作品であっても、コレクター向きかどうかすぐにわかるという。こうした資産を活かして、近年はネット・オークションでの販売にも力を入れているそうだ。
敗戦後、日本には富裕層と呼ばれる人たちがいなくなり、財産はすべて会社の持ち物となった。だから嗜好品と言われる美術品には、なかなかお金が回らなくなった。しかし動くお金には限界があっても、人だけは動き続けている。その「人」こそが本当の財産だと、金子さんは断言する。
川越画廊は1995年に現在の場所に移った。川越は、古くから変わらぬ人の結びつきがある一方で、変化に俊敏に対応することのできる機動力を兼ね備えている。変化する力と変わらない力。その併存が川越の魅力であり、強さなのかもしれない、そして、その相違える2つの力をしなやかに結びつける新たなものの見方を提示することが、川越で求められる美術の意義なのではないか。

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そもそも美術や芸術という概念は、近代化の過程で生み出されたものだ。それは人間の視点から神の視点を切り離し、さらに個人の能力を最大限に引き出すために力を発揮してきた。先進国において物質面での近代化はたしかにほぼ終了したと言えるが、一方で精神面での近代化において課題を残す国も多い。だからまだ、美術の役割は決して終わったわけではない。
 日本でも明治以降、他のさまざまな社会制度とともに「美術」や「芸術」が西欧から移入された。そして近代的自己の確立に寄与してきたわけだが、それと並行して別の問題が起きてきている。つまり、自己意識が拡大するにつれて他者の存在を受容しにくくなってきたのだ。そこで、私的領域を守りながらも同時に他者を受け入れられるような新たな思考様式の確立が、目下の最重要課題となっている。
社会芸術は、個々の役割を活かしながらそれらをつなげていくことを基本姿勢としている。だからそこに参加する人々は、何かしら自分のできることを持っていなければならない。ただしそれは芸術に限られたことだけではない。掃除をしてくれる人がいればもちろん助かるし、ただ見てくれるだけの人もいてほしい。その場に立ち会う人々の接し方が、そのままその人固有の役割として意味を与えられていくのである。
吉田はこれまで、ものを作っている人々とともにひとつの場づくりを繰り返してきた。領域の異なる専門分野を結びつけることで、有機的で広がりのある人間の連帯を実現してきたのだ。一方で福祉アートは、先述のように境界を無くすことで誰でも参加できる場づくりを目指している。一見、似たように見えるこの2つの活動の本質的な違いは、まさにそこにある。
 
社会が複雑化し専門性の極度に高まった今日では、人の営みをすべて理解することはもはや不可能である。与えられた範囲の中で、各人が自らのやるべきことをこなしていく他はない。しかしそのことで人々は分断され、常に言葉にならない不安を抱えるようになった。周囲の無理解の中で生きていくことは、ある意味で現代人の宿命なのかもしれない。
この状況を克服できるのは、他者のやっていることはよくわからなくとも、自分のやったことが確実に他者とつながっていると感じることのできる感性なのではないか。それを象徴的に示す世界観に触れることで、社会における自らの有用性が知らず知らずのうちに内面化されていくのだと思う。社会芸術はこれまで個々の美術家の固有性を尊重しつつも、そこにひとつの物語を導入することで、それらを孤立させることなく共に活かし合える関係へと変質させてきた。こうした感覚を多くの人が共有できるようになるために、吉田の今後の活動に期待したい。(おわり)

 『社会芸術vol.2「東西見聞録 創造性の根源を考える」』(2012. 3.31、社会芸術)

時代は遡るが、吉田は1987年、群馬県沼田市内に地域における文化活動の拠点として「アートハウス」を開設した。ここでは展覧会ごとに企画者を設定することで、作者、企画者、鑑賞者といった役割を明示することを心掛けた。そのことで、美術の活動には美術家以外の人々の関わりが不可欠であることをアピールしようとしたのだろう。アートハウスを運営した12年は吉田にとって、特定の人間関係の中で美術の活動をいかに組織化できるか探るための模索期間だったのではないか。
2002年、吉田は東京に居を移す。社会との関わりを意識しつつも、それまでは1点1点の造形物をそれぞれ完結した作品として提示していた。しかし、吉田自身に起きた大きな変化の中でこれまでのそうした方向は一新され、美術を社会のさまざまな事象をつなぐための媒介にしたいと考えるようになったらしい。このとき吉田の中では、美術が機能不全に陥った今日の社会の中で、その位置づけを根本から再構成したいという願望が膨らんでいたに違いない。
この頃から、吉田はしばしば「社会芸術」という言葉を用いるようになる。芸術家には本来、利己的な意味での自由はなかったと吉田は言う。ところが近代以降、極めて自己本位的な営為となり、その結果、芸術は表現者によって自ら消費されるものとなった。だからこそ今、芸術は公共性を持つことができず、社会に流通しなくなったのだと分析する。このように社会から遊離してしまった芸術を、もういちどその構成要素へと引き戻すための方法論として社会芸術は提起されたわけである。
ところで戦後の日本の復興政策は、中央集権制を強化することで進められてきたと言える。しかしその結果、地方で孤立していく高齢者をどうするかが今日の社会問題となってきた。一方で近年、構造不況による求人率の低下により、若年層の就業が年々困難になっている。そこで、高齢化の進む地方に若者を派遣して、老人たちと共同生活を送ることで双方に生きがいを与えようとする事業が展開しつつある。
その中でも特に、美術家を目指す若者が地方で高齢者とともに過ごすというのは、極めて発展的で効果的なやり方だと思う。こうした活動のことを筆者は「福祉アート」と呼んでいる。しかしそこで行われていることは、たとえ造形作業がメインだったとしても、私たちが知っている美術とはかなり趣の異なるものだ。なぜなら福祉アートでは、美術家としての専門性をあまり表に出さないことで地域の人々とつながろうとしているからである。(つづく)


前掲の「そして物語は始まった」で紹介した「蔵と現代美術-響きあう空間-展」に、吉田富久一氏が「あたらしい水 竜の囁き」という作品を出品した。それに関連し、同氏の活動に関するコメントを『社会芸術vol.2「東西見聞録 創造性の根源を考える」』に寄稿した。その文章をここに転載させていただく。
  

 
2011年11月、川越市内で何軒かの蔵を使った「蔵と現代美術」展が開かれた。ここに参加した吉田富久一は、長谷川千賀子や矢萩典行らとともに「あたらしい水 竜の囁き」というインスタレーションを制作した。彼らの会場となった林家川魚店は、狭い間口と深い奥行きを特徴とした典型的な町家建築だ。通りに面した食堂の奥に調理場があり、その先に中庭、そしてさらにその向こうに土蔵がある。
この中庭に1メートルほどの長さの竹炭が数十本、天井から規則正しく吊るされた。竹炭を伝って降りてくる水は下の受け皿に溜り、そこを透過してさらにその下の陶器に貯えられる。貯まった水は傍らに置かれた水琴窟に注いで音を聴くこともできるし、沸かしてお茶にしていただくこともできる。
作品を構成する各部分はそれぞれに作者が異なる。竹炭を焼いたのは吉田と長谷川で、水受けと水琴窟は長谷川が作った。水を流すための装置は吉田が架設し、湯呑の器は矢萩の手による。吉田はこれまでも、作品を自分の創作物として見せるのではなく、複数の作者の作品を組み合わせることでひとつの空間表現として提示してきた。個々の造形物はそれぞれ完結した用途を持っているにもかかわらず、そこに立ち会った人々はその連鎖を追いながら物語の展開を読み取っていくわけだ。(つづく)


ところで、画廊や美術館以外の場所を使って美術作品を展示するというのは、今に始まったことではない。1950年代にはすでに公園などを使って、現代美術家による実験的なイベントが行われていた。彼らは既成の展示空間から離れることで、人間が表現することの本質を問おうとしていたのだ。また、日常空間の持つ固有の歴史や環境との関わりの中で作品のテーマを考える美術家も現れる。こうしたやり方はその後、サイトスペシフィックと呼ばれる表現方法として定着していく。
さらに1990年代に入ると、市街地の商店や公共施設などでも積極的に美術作品の展示が行われるようになった。ゲント現代美術館館長だったヤン・フートが、1986年にベルギー市内の民家を使って行った「シャンブル・ダミ」というプロジェクトがそのきっかけだった。フートは1991年、石川県鶴来町(現・白山市)で蔵や醸造所、家屋、駅舎などを使った展示を行い、これを機にわが国でもこの方式によるプロジェクトが広まっていった。
川越の蔵空間では、これまで文化的なイベントが行われることはあまりなかった。音楽や舞踊等の舞台芸術には、利用上の制限が多すぎるのだろう。しかし一方で、現代美術にとって蔵空間は極めて魅力的な存在となる。こうした歴史的な構造物に対して、美術家たちは常に現代的視点から読み直しを行っているからだ。この展覧会は、個々の美術家のユニークな作品表現を通して、蔵の記憶とその今日的意義を浮かび上がらせるものとなった。
川越の土蔵の多くは現在、商業用、観光用に改修され、本来の機能や歴史性が見えにくくなっている。そうした背景を知らない者にとっては、買い物と散策を楽しむだけで充分なのかもしれない。しかしこの街の魅力を維持しさらに発展させていくためには、住む人と訪れる人の間で新たな物語を紡ぎ出すことが有効であろう。それは、そこにやってきた人々を、知らぬ間にその劇の登場人物に仕立ててしまうような何かである。
今回行われたこの小さな試みは、今後どのような物語へと展開していくのか。美術にはそれを仕組む力があると思う。物語はすでに始まっている。次はこの劇場に入ってしまった私たちが、それぞれに自分自身の役柄を選び取っていく番だ。(おわり)

『2011年「蔵と現代美術-響きあう空間-展」第1回展記録』(2012. 2、「蔵と現代美術展」実行委員会)より転載

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