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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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<展覧会が示唆していたもの>
 「現代美術展<分岐点>」はこのようにたくさんの人々の協力を得て、無事、閉幕することができた。終了後に行われた反省会では、企画者である私とそれぞれの出品者の間で意志疎通が不十分だったのではないかという意見が何人かから出された。その言葉から私は、意志疎通のあり方についていろいろと考える機会を与えられた。
 意志疎通は、人々が共同作業を進めていくうえで欠くことのできない手段である。意思疎通を円滑に行うためには、何をよしとするのかという価値観の擦り合わせが不可欠だ。価値観というのは、地域や文化、そして個人によってもかなり差がある。価値観がずれていたため、お互いにわかっているつもりが、実は何もわかっていなかったということもしばしば起こる。
 歴史的に見ると、前近代と言われる中世期には、個々の価値観の違いというものは人々の間であまり意識されていなかった。共同体における構成員の出入りが少なかったため、自他の区別を持たないままでの意志疎通が可能だったのだ。だから、外から移住した者はまずその集団の価値観に同化する必要があった。その意味で、共同体自体がひとつの価値を有していたと言うこともできる。
 ところが近代に入ると人口移動が頻繁になり、価値観の異なる者どうしの接触が増えたことで、合意形成というプロセスが意志疎通の前提となってきた。そしてその合意を保証したのが、理性的な判断に基づく合理性であった。合理的に物事を考えるためには、まず一貫性を持った自己が形成されなければならない。そして自己意識の確立に伴い自他の区別が明確となり、資源の私有を巡ってしばしば競合が起こるようになった。その結果、合理的集団が非合理な集団を制圧的に支配することで、最終的に最も合理的なシステムを持った国家が世界を統治することとなった。
 このように、これまで人々は合理的で普遍的な価値を善とし、勝者の基準を盾に合意という名の侵略を繰り返してきた。ところが社会がグローバル化するにつれ、普遍化する社会規範と現実の住民意識のズレが破綻を見せ、それがあちこちで露呈してきた。合理性の名のもとに押さえられていた人々が、その抑圧に対して反旗を翻す内戦の勃発である。そこで今日では、異なる価値を受容できる政治システムを構築することで、価値観の個別性を保障すべきではないかと考えられるようになった。
 しかし、そこでひとつ大きな問題が生じた。個別的価値を大事にするほど、人は相手の価値観に共感しなくなる。そして、互いに無関心になったことで孤独化し、そのため本人もまた自分自身の価値観に魅力を感じられなくなってきたのだ。価値というのは、他者と共有することで初めて意味を持つ。それならば、この「個別的価値」という言葉自体にそもそも矛盾が孕まれていたのではないか。(づつく)
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