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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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2000年、黒須植物園を会場に「ボタニカル・ミュージアム」展が開幕した。樹木が立ち並ぶ合間合間に、あるものは隠れるように、またあるものは存在を誇示するように作品が設置された。観客は配布されたイラストマップを手に、どれが作品でどれが庭石でどれが植栽用具なのか慎重に見分けながら会場を周っていくという、体験型の展覧会だった。
この展覧会を企画したのは本田晴彦さんである。本田さんは、多摩美術大学の大学院在学中から吉田克朗氏の手伝いをしていたという。吉田氏は1960年代から現代美術界で注目されていた「もの派」の美術家の1人である。その作品制作や展示現場に立ち会いながら、本田さんは美術家が活動を行っていく上での基本的な姿勢を多く学んでいった。
1980年からは、神田にあった真木画廊や田村画廊などで作品の発表を行うようになった。当時の神田界隈は、1970年代から発表を続けている美術家と新たに発表活動を開始した美術家とが互いに議論を戦わせながら、美術の新たな方向性を模索していた。こうした中で本田さんは、これからの展覧会のあり方について自分自身の考え方を確立させなければならない状況に追い込まれていった。
その問題意識から、神奈川県民ホールギャラリーで開始されたグループ展の企画メンバーに加わることとなる。同ホールが主催しながらもその運営を美術家のグループに任せるという、画期的な展覧会だった。本田さんは1981年に行われた「様・式」や1983年の「回」、1984年の「ひとりあるきの箱」などに関わった。そして、これらの運営を経験しながらある確信を得るようになった。
美術家の間では1960年代から、画廊や美術館といった美術専門の展示施設以外の場所で活動を展開させるべきだという考え方が根強くあった。いわゆる「オフ・ミュージアム」構想である。当時、新たな美術の牽引者として美術評論家や美術館学芸員などが注目されていたが、日本の美術界はあくまでも美術家が責任を持ってリードしなければならないと考えたのだ。こうした方向性のもとに1980年代に入ると、都市から離れた場所で美術家主導による郊外型の美術展が頻繁に行われるようになった。
そんな流れの中で、本田さんは1988年、山梨県の富士見町で「造形的生態学―自然のなかの彫刻展」を開催した。長野や山梨で無農薬農法を実践していたグループと前々から交流があり、彼らが行うサマー・フェスティバルと並行して、町営の富士見パノラマスキー場で展覧会をやることになったのだ。ここに参加した美術家たちは、電気も水も通っていない広大な斜面の上で、それぞれに試行錯誤しながら作品を組み上げることとなった。
ここは夏休み中、親子連れの観光客が多く訪れる場所だ。そこで、子どもたちにどう見てもらうかについても工夫を施した。どんな素材で作られているか作品ごとに記入していくワークシートを配布して、全問正解者に景品を贈呈するという趣向だった。美術家主導の展覧会の中でも、このように観覧者への細かなサービスを意識したものまだあまりなかった。(つづく)


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