1970年代から80年代にかけ、市街地に野外彫刻作品を設置することで、地域住民の生活の質を向上させようという動きが全国的に広まった。それらの多くは、自治体が策定した計画に沿って、短期間にたくさんの作品を置くことを目指した。そこでは、そこに住んでいない美術の研究者が作者を選考し、その土地のことを知らない彫刻家が作品を制作していった。その結果、誰のものかもわからぬ作品が次々と現れ、住民の知らぬうちに街の姿が変貌していったのである。
囲碁や将棋でも、一手打ったら相手の返し手を待って次の手を考えるものだ。そうしないとゲームは成り立たない。ところがこれまでの公共事業は、住民の反応を見ないまま次の手を打ち続けてきたように思う。だからこそ住民は、地域づくりに対してこれほどまでに無関心になってしまったのではないか。
1970年代に入り全国組織である青年会議所では、単に営業利益を求めるだけでなく、地域づくりのために貢献しようという目標が掲げられるようになった。そうした目標のもとに、支部ごとにさまざまな試みが行われるようになる。当時は、山口県の宇部市野外彫刻展や兵庫県神戸市の須磨離宮公園現代彫刻展が、彫刻を用いた新たな街づくり事業として注目されていた。それらを手本として、東京の八王子市では青年会議所が中心となり1976年から「八王子彫刻シンポジウム」が始められた。
そんな中、川越市でもまた青年会議所が主体となって野外彫刻を使った祭典をやろうということになった。これを仕掛けたのは、当時の川越青年会議所理事長の齊藤英雄と実行委員長の三上泰弘だった。齊藤は電子機器類の流通卸を専門とする(株)サンテックスという会社を経営しており、三上は祖父の代から続く(株)三上工務所の経営者だった。
齊藤と三上は、川越出身の彫刻家の橋本次郎に協力を求め、さっそく彫刻家の人選に入った。充分な予算もなかったため、6人の若手作家に参加を依頼することとなった。会場には、再開発のため空き地となっていた川越駅西口広場が当てられた。1977年、このようにして「川越野外彫刻シンポジウム」は華々しく幕を開けるが、その後、この事業が継続して行われることはなかった。
ところで、同シンポジウムの出品者のひとりに、東京藝術大学を卒業したばかりの田中毅がいた。田中は、シンポジウム終了後も近所に家を借りてこの土地に住み着くようになった。狭い場所で制作を続けている田中の姿を見かね、三上は会社の敷地内の作業場を提供することにした。以降、三上と田中は家族ぐるみの付き合いを続けるようになる。(つづく)
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