加茂哲さんと孝子さんが自宅アトリエで2人展を行う。飯能に越してきて22年ほどになるが、これまでアトリエを公開したことはなかったそうだ。さらに長い間、共に制作してきたにもかかわらず、夫妻で作品を展示するのは今回が初めてだという。
哲さんは1949年、静岡県に生まれた。美術の道を目指して上京し、東京造形大学で彫刻を専攻した。卒業後、「十指作」(としさく)という美術造形製作所を開業し、景気の高揚に伴って仕事は順調に増えていった。
孝子さんは麻布の生まれ育ちで、武蔵野美術短期大学では工芸を専攻した。ある出会いから哲さんと結ばれ、生家の近くで共に生活を始める。自宅の1階に、東京造形大学出身者を中心とした美術家の共同経営による画廊を開いた。「オーブ」という名で、孝子さんがその運営に携わった。
ここでは作品を制作していることがメンバーの条件だったため、孝子さんも何か発表しなければならなくなった。孝子さんは初めテキスタイルの制作をしていたが、徐々に材料が紙に変わっていった。テキスタイルには、染めや織りといった一連のプロセスが不可欠だが、紙は自らの行為を直接表現としてそこに留められるのが魅力だった。
哲さんの作業場は西所沢にあった。受注した造形物を造りながら、その傍らで自らの制作を行っていた。無数の鉄線を溶接して、有機的な形態を生み出していくという作業だった。完成形を予め決めず、制作の中で生成してくる形態を追い求めていた。
1989年、心機一転のため、家族全員で麻布から飯能へと引っ越した。周辺には西雅秋さんや城戸孝充さんといった同世代の美術家も多く住んでいた。自然に恵まれ、子育てにもよい環境があった。学生や生徒の主体性を重視した教育で知られる「自由の森学園」も近かった。その方針に共鳴し、3人の子どもたちはすべてそこに通わせることにした。
ここには2人分のアトリエが用意されたが、哲さんは生業に追われ思うように制作が進まなくなった。そのため孝子さんは、両方のアトリエを思う存分使うことができた。制作は紙と格闘する方向へと展開し、作品も徐々に巨大化していった。
数年前から孝子さんは、小川町にある和紙体験学習センターでワークショップ指導などをしながら制作するようになった。作品も、紙に形を与えていくやり方から紙の本質を見つめる方向へと変化してきた。昨年は同センターでの展示で「創発」に参加したが、そこでは水を含んで変形していくデリケートな紙の質を見せていた。
一方で哲さんは、5年ほど前、作業場に生えていた大木を近所との関係で切り倒さなければならなくなった。それは、ここを建てたときから共に成長してきた思い入れのある木だった。処分するのも忍びなく、自宅の庭に小屋を作って休みの日ごとにその幹を彫り始めた。
木彫は素材と対話しながらの作業となる。そこにはFRPなどの造形作業からは得られない心の安らぎがあった。哲さんは一刀一刀、年輪に込められた樹木の意思を探りながら掘り出していった。
孝子さんが使わなくなっていたアトリエには、哲さんの作品が1つまた1つと増え始めた。それらは屋外の自然環境と親密な関係を結び始めていた。これを機に哲さんは、作品の発表を再開しようと決意した。そして2009年9月、銀座のコバヤシ画廊で久々の個展が行われた。
かつて神田などにあった画廊には、必ずその片隅に人が集まって語り合える場所があった。そしてそこが、美術を目指す人たちを育てる揺籃となっていた。ところが1990年に入ったころから、人の成熟をゆっくり待っていられる余裕は世の中からなくなった。画廊は作品を売る場となり、美術家もまた生業に時を費やされるようになった。すべての人がわき目も振らずそこを駆け抜けてきたのだ。
今、多くの人が時代の曲がり角に立っていることを感じている。こんなときこそ私たちは、できるだけ人と向き合って話をするべきなのだろう。しかしすでに、画廊にそれを期待することはできない。そこで改めて、その場をいかに創出できるのかが問われている
加茂さんの3人の子はみな家を出て、部屋にもゆとりができた。それならばここで作品を展示して、人々に見に来てもらうことはできないか。作品があって人が寄る。そして何より、そこを話のできる場にしたいと孝子さんは言う。かつて師弟関係を育む場であったアトリエに、今までなかった新たな機能が与えられようとしているのかもしれない。
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