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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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 秋元さんの話に引き続き、藤浩志さんが、日中、行われたワークショップの話と併せて、自らの制作姿勢について語った。アーティストだけあって、彼の言葉からは、聞く人の想像力を喚起させる表現が次々と飛び出してくる。そこで彼の話を、私なりの解釈を交えながら反芻してみたい。

 藤さんはまず、このような話し合では「と」が大事だと語った。「私とあなた」の「と」である。これは、いわゆる言葉の二人称性ということであろう。一般に、抽象的な話をするときには三人称言葉の方が便利である。日本の将来をどうするかとかいったことは、私とあなたの間だけでは決めることができない。「2人のため、世界はあるの~」とは言うが、それは一時の倒錯した世界観だ。
 それに対して、目の前で起こっている問題を考えるときはやはり二人称の方が有効である。意見を真っ正面から突き合わせることができる。居酒屋でビールにするか焼酎にするか決めるのに、周りのお客さんの気持ちを推察してもしかたがない。
 このワークショップも、今、まさに北本で何が始められるのか考えようとしているわけである。そのためには、市民全体のためとか、街の将来のためといったように大風呂敷を広げたとたん、たちまち袋小路に突き当たってしまう。北本市民が考えるアートは千差万別だし、街の将来などといったら雲をつかむような話だ。見えない人のためのアートなどというものは、この世に存在しないのだ。
 さらに言えば、ここに集まった人たちだってアートの好みは皆違う。じゃあそれぞれ勝手にやればよいかというと、それでは永遠に社会性が持てない。そこでとりあえず、あなた「と」私で何ができるのかを考えようというわけである。そこを出発点として、初めて、二人称から三人称へと広がっていく可能性が探れるということなのだろう。

 藤さんは、これまで自分が行ってきたいくつかのプロジェクトについて紹介してくれた。そのひとつに「かえっこプロジェクト」というのがあった。これは、子どもたちにいらなくなったおもちゃを持ってきてもらい、それに「カエルポイント」(価格)をつけて展示する。そして、展示されたものの中から自分がほしいものを、カエルポイントで買うことができるという決まりである。飽きてしまったおもちゃは始末に困るし、交換と流通の仕組みもなかなか子どもには教えにくい。これらはいずれも、社会では扱いにくい問題として置き去りにされている。ところが藤さんは、その2つを結び付けることで、アートによってそれぞれの問題点をみごとに解決したのである。
 藤さんが作品を作るときの出発点となるのは、ふだんの生活の中で感じるズレや違和感だそうだ。それを彼は「もやもや」と呼んでいる。そして、その溝を埋めたり覆い包んでいけるものを考え出すのだ。そこで浮かんできたイメージに形を与えるうち、少しずつ作品が完成してくるわけである。
 「もやもや」を解決するために、世間の常識は役に立たない。だからといって非常識はだめだ。新たなイメージを導き出すことのできる唯一の道具を、藤さんは「超常識」と呼んでいる。
 この「超」という語には、ひとつの枠の中に収まっているのではなく、かといってその外側にあるのでもないという印象がある。要するに、異なる2つのものを超越して包括(止揚)するような、1段階上の思考を目指しているのだろう。だからこそそれを見つけ出すには、提案と実験(帰納と演繹)の繰り返しが必要となるのだ。完成されたアートはすでに常識の範疇にある。藤さんが、完成された芸術品のことを単数形で「アート」と呼び、何かを生み出すための営みのことを複数形で「アーツ」と呼び分けているのも、そこに理由がある。
 藤さんは「ヴィジョン」という言葉を好まない。すべてのものは、目的のないところから発生するという主張があるからだ。目的は生まれてくる。だから私たちは、その生まれつつある状態を大切にしなければならない。行政がヴィジョンを語るときによく使う、使役動詞的な「活性化」という言葉を、彼は能動的に「豊醸化」と言い代えた。

 藤さんの発言の中で私が特に関心を持ったのは、藤流経済学の話であった。聴講者の一人から「アートはなぜお金がかかるのか」という質問が出た。それに対してまず司会の森さんから、お金をかけないやり方もあるが、アーティストが生活をしていることも忘れないでほしいという発言があった。
 それを受けて藤さんからは、生活のことは考えなくてくれなくてよいと勇ましい答えが返ってきた。彼いわく、アーティストは、何となれば人から物をもらって食べることもできる。事実、自分は、福岡の片田舎に住んで、近所の人から野菜などの施しを受けてしのいでいる。それよりもアーティストは、与えられた予算の中でどこまでやれるのか、それをもっと真剣に考えてもらいたい。今日のアーティストの多くは、よりよい作品を作るためしばしば自腹を切って制作してしまう。藤さんはこうしたやり方に非常に批判的なのだ。
 実際に美術家たちは、これまで、作品を発表するとき自ら経費を負担するのが常だった。貸し画廊はそのよい例である。もちろん貸し画廊には、それを隆盛に導いた社会的な要因があったわけだが、現在、その必然性が徐々に薄まってきている。美術家は自然発生的に生まれるのではなく、やはり社会に承認されることで存在しているのだ。
 戦後、多くの美術家たちは、教員などを行う傍ら、作品の制作と発表を行ってきた。生業から得た収入を美術活動に転用することで、美術家としての地位を築いてきたのだ。だからそこでは、作品の発表とそれに対する対価の支払いという交換関係が成り立っていなかった。
 ところが戦後日本の復興を支えた経済成長期が終焉し、1990年以降になると、大学卒業したての若いアーティストたちには条件のよい仕事がなくなっていった。今のようすでは、かつての好景気が再来する可能性も極めて薄い。これからは、アーティストも一般的な経済原則に則り、与えられた予算の中で何ができるのかを考えざるを得なくなっているのかもしれない。
 懇親会の後、私は、アーティストもそろそろ「かえっこプロジェクト」に参加する時期かなあどと考えながら、真っ暗な北本の夜道をわが家へと向かった。(おわり)
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