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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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五十路のチビジ
埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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近くの命と遠くの命-「いのちを見つめる」展に付き添って(その4)
2009/11/07 (Sat)
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<連続する命>
そこでもういちど、命はみなつながっていて近親者ほどそのつながりが濃いという前提に戻ってみよう。血縁関係は、近親者から遠縁者へと結びつきの濃淡をもって広がっていく。そして、このように命を一種の連続体として捉える見方は、実は現在では科学的にもしばしば行われるようになっている。
生物の行動の一義的な目的は、長い間、その固体の保持であると考えられていた。つまり、動物が食物を捕らえたり危険から身を守ったりするのは、自分自身を生かすためなのだ。ところがこの考え方だと、たとえば親が身を呈して子を守るというような利他的な行動についてうまく説明できない。
そこで遺伝子学者のリチャード・ドーキンスが示したのは、生物の第一の目的は固体の維持ではなく、遺伝子の保持であるというアイデアだった。遺伝子は、地球上に生命が発生したときから少しずつ変化し、多様化しながら今日まで生き続けている。その間に現れては消えていった無数の生体のひとつひとつは、遺伝子を未来につなげていくための乗り物にすぎないというのだ。
これは生命に対する大きな発想の転換となった。そのことで親子間における利他的行動だけでなく、ミツバチや蟻が兄弟の中の1匹だけに子孫を残させ、他はその援助に回るという行動の意味も説明できるようになった。つまりそれは、一個一個の生体を操りながらできるだけ自分に近いタイプを残していこうとする、遺伝子の戦略だったのである。
ところでヒンズー教では、アートマンと呼ばれる永遠不滅の魂があり、それが生体の発生と消滅を引き起こす原動力とされている。だから信徒たちにとって、今、生きていることは、次世でよりよく生まれ変わるための修行となる。命というのは一回限りで消えていくものではなく、延々と繰り返す生の明滅を司ってきたひとつの流れなのだ。ちなみにゴータマ・シッダールタは、こうした現象を理論的に解き明かすことで自らをその輪廻から解放しようとした。
ここで、これまであいまいだった「生命」という語の両義性がおぼろげながら見えてきたのではないか。すなわち「生」とは固体の発生から終焉までの生体維持のことであり、「命」というのは固体を超えて連続していく生体連鎖のことなのだ。言い換えれば、生命活動を空間軸で捉えたのが「生」であり、時間軸で捉えたものが「命」である。前に「近代に入ると、そうした時間軸が忘れ去られ、空間軸のみに焦点が当てられるようになった」と書いたが、冒頭に掲げた「延命治療、臓器移植、尊厳死、自殺、無差別殺人」などの問題もまさにこの「生」に関る側面に他ならない。
さらにこれを遺伝子レベルで見ると、そこに組み込まれた記号によって生体を維持していく活動が「生」であり、それを別な固体へと再生させていく活動を「命」と言うこともできる。いずれにせよ、こうした東洋的な生命観がドーキンスに大きな示唆を与えたことは想像に難くない。そしてこの発見は、生物学だけでなく現代思想界にも強い影響を及ぼしている。
さて、そこで再び浮上してくるのは、「自分を含む特定の範囲の者達の繁栄」の問題である。これを超越する、上位の概念をそろそろ示さなければならない。近親者ほど命のつながりが濃いにもかかわらず、なぜつながりの薄い遠縁者の命も私たちは大切にしなければいけないのか。この問いに対し、高草木さんから新たな提案があった。
「敵の敵は味方だったりするからだと思います。隣りの人とインターフェースをとるために窓を開けます。挨拶を交わし、家の外に出てきて握手します。隣りの人はそのまた隣りの人と同じことをします。そうしてつながっていくと地球を一周してしまいます。/つながりの方向は一ライン、一方向ではなく、各ポイントからその周囲へ向けて多方向へ広がっていきます。そうして世界は無数の節点を持つ網目で覆われます。その節点ひとつひとつが『いのち』です。/温暖化、大気汚染、水質汚染、土壌汚染、砂漠化、水不足、食糧不足、感染症・・・。こうしたことを乗り切る為にいのちの連携、ネットワークが必要で、時に地球の裏側 のような地域に住む人々から発せられるいのちのシグナルにも呼応するようになってきているのだと思います。」ということだった。
では、「挨拶を交わし、家の外に出てきて握手」するという「節点」がなぜ「いのち」になるのか。それは、「この『節点』は人だから」だという。そして彼女には、「手を結ぶところの理念の根底となるのが『いのち』だ」という直感がある。
命をつなぐというのは、言い換えれば生殖することである。長い歴史の中で人類は、異なる共同体の人間を迎え入れながら生殖活動を行ってきた。場合によっては言葉も通じない者どうしが、何によってその関係を維持してきたのか。それは言うまでもなく、生殖行為を通して培われる愛の力である。愛という習慣は、厳しい環境変化の中で人類が自然適応を繰り返しながら身に付けた、遺伝子保存のための戦略だったのではないか。
余談だが、「誰々命」という言葉があった。かつて、愛し合った男女が将来を約して腕に彫り込んだ文字である。それは、ともに子孫を残そうという、互いの遺伝子に果たした誓いだったのかもしれない。(つづく)
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