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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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<孤立する命>
 そもそも「自分を含む特定の範囲の者達の繁栄」を目指すと言ったとき、その「特定の範囲」とは誰を指すのか。身近なところで考えれば、遠くのものより近くのものが大事という感覚がある。つまり、その1点を一言でひっくり返すような黄金律があればよいのだ。「世界が100人の村だったら」なども大いに参考となる。一種のトリックではあるが、アートにはそういう見方を提示する力があると思う。
 これについて高草木さんから、「自分は『いのち・連携』ということで芽がぐんと伸びたしわしわのジャガイモ描いてます」という自作についてのコメントがあった。
 「深い皺をたたえ、よぼよぼのジャガイモは土も水分もない状況で太く長い芽を伸ばしています。芽はひとつのものもあれば5つほどのもあります。既に芽の長さはジャガイモの直径の3~5倍の長さになっていて芽からは小さな根がのぞいています。先端には丸まった小さな葉もついています。劣悪な環境下で持てる限りの力を振り絞って次世代にいのちのバトンを渡そうとしているのです。滅びんとする姿と新しいいのちの姿が同居しているのを見ていのちの甦生、連携を感じました。」という。
 塊茎植物であるジャガイモの場合、「滅びんとする姿と新しいいのちの姿」は個々に独立した存在ではなく、視覚的にも連続している。しかしそれは、実は人間でも同じなのだ。今という空間軸で見れば、たしかに人は自立して存在しているように見える。しかし時間軸で見たとき、それぞれの過去はすべて母親の胎内へとつながっている。
 昔の人々は、そのことを直感的に知っていたのではないか。血縁者は単なる身近な人ではなく、それを超えた切るに切れない何かがある。だからこそ人々は、「自分を含む特定の範囲の者達の繁栄」を目指してきたのだ。そのことをジャガイモの姿は象徴的に示している。
 ところが近代に入ると、そうした時間軸が忘れ去られ、空間軸にのみ焦点が当てられるようになった。ひとりひとりが別の命を持っており、人が死ぬとその命も消える(だから個々の命を大事にしよう)という唯物論的な見方である。特に胎生動物の場合、子は親と同じような体形で人々の前に現れるので、その説に対する通俗的な信頼も高まる。そしてこの考え方が、近代的自我の発達に大きく貢献することとなる。
 その結果、命に対する人々の直感とこうした科学的理解とのずれが、今日、さまざまな社会の歪みを生むようになったように思われる。エレメント・ブックに参加した高橋さんや本多真理子さんが指摘した疑問も、このような価値観の齟齬から派生していたのではないか。
 たとえば高橋さんは、「人は人をなぜ殺してはいけないか」ということを問いかける。それを「子供に判るくらい簡単に」作品で示そうというのだ。これを見たとき、私はむしろ「人はなぜ生きなければいけないのか」という問いにこそ普遍性があるように思えた。しかし一方で、「なぜ生きなければならないか」は自問なので議論されることが少ないのに対し、「なぜ殺してはいけないか」は他者に向けて投げかけやすいのも事実だ。この質問はあくまでも、子どものそうした率直な問いかけにいかに向き合うかが主旨であることを理解した。
 そこで高橋さんは、「自ら手をくだして殺人に及ぶことまでは考えないにしても、言葉で追いつめ自ら死を選ばせるのは間接的に殺人願望を満たしているようにも思えます」と言う。要するにこの問いの根底にあるのは、殺人行為というより、人が本性的に持つ「殺人願望」への問題提起でもあったのである。
 殺人願望と言われると、人は一瞬とまどうかもしれない。ふだん意識していない分、それは人間の心理の深いところにあるのだ。生まれることと死ぬことは、人類が発生したときからの最大の関心事だった。自他の関係が未分化な原始共同体にあって、他者の死は、自らの身体(または意識)の一部の消失として受け止められていたに違いない。そこで命は、近親者ほど強いつながりを持つ連続体として受け止められていたのだと思う。それは前述したとおりである。
 自分にとって大切な部分が消失することを惜しむ。その感覚は現代人も同様に抱えていて、肉親の死を自己の外側のできごととして完全に相対化することはできない。そうした想いは人間である以上、失ってはいけないものだと思う。そしてその対極には、死(不都合な部分の消失)を望むという反動的な心理があり、それらは補完的に両立している。これもまた、合理的に割り切ることのできない命の遠近感だろう。
 一方で本多さんは、「死に方の選べない国でなぜ生きなければならないか」、要するに安楽死の問題を提起した。そして「最低限ヒトであるべき識閾で時を閉じたい」と、これを時間の問題と重ねていく。
 私は、時間には、宇宙空間に流れる物理的時間、循環する生物的時間、それに個々の意識の中に流れる心理的時間があると考えている。この中の生物的時間は、生物の個体維持活動と並行して流れており、医学はそれをできるだけ延長させることを目指してきた。また心理的時間は、個々人が眼前に広がる事象と意識的に関ることによって進行する。だから意識が薄くなると、この位相の時間は停滞してくる。
 この分け方に従うと本多さんの主旨は、生物的時間をむやみに伸ばすのではなく、むしろ心理的時間の衰退を死の進行として認識したいということのように思える。高橋さんや本多さんのこうした問題提起はいずれも、人の存在が関係の中で成立していることと、唯物論に基づく科学的な生命理解のずれから生じているように思えた。(つづく)

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