去る5月13日、さいたま市にお住まいだった美術家の重村三雄さんが亡くなった。ここ数年の間に戦後の美術界を築いてきた多くの人々がこの世を去った。中でも重村さんは、私がこの世界に入ってからずっとその勝手な動きを見続けてくれていた大切な人だった。かつてギャラリーせいほうで行われた個展のパンフレットに序文を寄せさせていただいたことがある。今見ても重村さんの活動の要点が示されているように思うので、その文章を転載させていただく。
私が重村さんの作品と重村さん自身に初めて出会ったのは、1982年の新宿センタービルでの個展会場だったと思う。平日の日中だったこともあり、客は私ひとりだけだった。不気味に静まりかえった会場を奥まで歩いていってふと振り返ると、型どられたギリヤーク尼ヶ崎氏の大げさなポーズの立ち並ぶいちばんすみっこの方に、ひとりポツネンと腰かけているだけの作品があった。恐る恐る近づいてみると、それは生身の人間で、他ならぬ重村さんだったのだ。その後、なにかとお会いすることも多くなるのだが、重村さんは必ずといっていいほど、人々が自分の作品と出会ったときのできごとを話してくれる。見知らぬ人が作品に驚き、不思議がったりこわがったりするのがこのうえなく楽しいらしい。今思えば、新宿で会ったときも、私の行動の一部始終は、あの眼鏡の奥の方からずっと観祭されていたに違いない。
重村さんのこうした秘かな愉しみは、そのまま次の作品を生み出す原動力となっていく。何と何をくっつけたらおもしろいか、そこから何が飛び出したらびっくりするか、その場所にどんな物があったら人目を引くかといったことに最大限の思索をめぐらせる。そしてまた私たちがまんまとその計略に乗せられるのを見ては嬉々として喜び、何だこんなもの、と言う者があればこれでもかこれでもかと次の手段を講じてくるのである。こうしたやりとりの中で、重村さんと作品を見る我々とは一種のコミュニケーション関係で結ばれる。それも、まったく対等な立場での関係であり、自分は芸術家であるとか、美術史に残る作品をつくってやろうなどという尊大さはみじんもない。ただひたすら作品を通した人々との出会いを求め、ふだん着の語らいを心から愛するのだ。そこでは、それが美術であるとか芸術であるとかというふうに位置づけること自体意味をなさない。こんな重村さんを見ていると今さらながら、美術っていったい何だったのだろう、と考えさせられてしまう。
今の時代において、美術や芸術という言葉がひとつの表現にかぶせられたとたん、それだけで社会的なステイタスが与えられる。それらはとてもありがたいもので、社会の役にたつものだ、という考えにあえて反論する人はほとんどいない。どんな無用のものでも、これは芸術ですと言われれぱ、それじゃあしかたないな、と変に納得してしまうようなところがありはしないか。重村さんだったら、こんな美術のあり方を一笑に付すだろう。型どりという手法でまがいものをつくり、本質の不在を浮き立たせるという制作のプロセスを想うとき、そこに重村さんの生き方がオーバーラップされてくる。あえて美術の世界に身を置き、そこで美術らしいものをつくることで逆に美術を形骸化させ、改めて人がものをつくることの本来の意味を考えさせるのだ。もしかしたら重村さんが型どり続けていたものは、だれもが何気なく使っている“美術”という言葉の概念そのものだったのかもしれない。
「重村三雄展」(1989.6.5-17、ギャラリーせいほう)パンフレットより
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