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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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 話は江戸時代に遡る。その頃、日本に「美術」という枠はなく、大和絵や浮世絵、仏像彫刻、焼き物といった領域ごとに、それぞれ異なる流通システムを持っていた。ところが、開国して欧米から「美術」という制度が導入され、それがひとつの業種として世間で位置づけられるようになった。以降、ものづくりを専門とする技術者たちは、領域の別を超えて「美術」という絆によって緩やかに結びつくようになった。
 美術業界の最も重要な役割は、優れた美術家や美術作品を評価し選別することである。そこで日本では、分野ごとに美術家の序列が形成され、上位者が下位者を評価し選別するというシステムが生まれた。そうなると、作品の善し悪しは美術家の間だけで審理され、作品を作っていない人たちの見方はその価値判断から排除されるようになる。
 こうしたあり方に対し、1960年代から変化が起きた。まず美術評論家と呼ばれる人々が、美術雑誌等の後押しを受けながら、美術家の評価や選別に関与するようになったのだ。その後、美術記者や美術館員といった美術家以外の専門職たちが、次々と作品の評価に加担してきた。こうした変化を受け入れようとする人々と排除する人々が、鮮烈な対立を起こすこともままあった。しかし、その波にさらされることなく、美術家が美術業界を取り仕切るという伝統的なシステムを継承しているところもまだ多い。
 さいたま市周辺にはたくさんの美術家が居住していながら、横浜と比べて彼らの活動が周知されにくいことを、私はこれまで繰り返し述べてきた。その理由を探るため、試みに2006年度の美術手帖の美術年鑑から、美術評論家、美術ジャーナリストといった美術家以外の美術関係者の数を拾い上げてみたことがある。その結果、神奈川県には26人いたのに対し、埼玉県ではたった6人しか見つけられなかった。マスメディアが美術家を紹介するとき、まずその媒介者から情報提供を受けようとするのは考えてみれば当然のことで、埼玉にはその人材が欠けていたのである。
 かつて美術作品は、作者から直接、利用者に手渡されるものだった。産地直売方式と言ってもよい。こうした流通のあり方は、これからも消えることはないだろう。しかし、美術家の活動が社会の中で承認されるためには、作品の流通を仲介する立場の人間がどうしても必要となる。商品情報を広く正確に伝えることが、まさに流通業者の役目だからだ。今日、同時代の美術が一般の人たちにもようやく認知されるようになったが、そのために美術の媒介者たちが果たした力は測り知れない。
 ART SALAD展では、展覧会から離れていく作家がいる一方で、メンバーからの推薦により近隣在住の出品者が増えてきているという。そのことで、展覧会に関わる業務の分担がしやすくなったそうだ。出品者たちがそれぞれ役割を分け合うようになると、作品を作っていない人も自ずと展覧会への加担がしやすくなるのではないか。美術家自身のために行われていた展覧会は、こうして少しずつみんなのものへと開かれていくのだと思う。
 そういえば、これまでは同展の紹介文に、「Gアートギャラリーで出品していた作家たちを中心として」という言葉を入れていたのだが、今回はそれを外したそうだ。これもまた、この展覧会が公共性を持ちつつあることの証だろう。展覧会が個人的な枠を超えて、美術家と社会を結ぶ媒介として機能し始めたのだ。プロデューサーという立場で関わっている宮川さんの本領が発揮されるのは、まさにこれからである。(つづく)
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 9月23日に開かれたART SALAD展のオープニングに行った。川口市立アートギャラリー・アトリアと、masuii R.D.Rの2会場を使って行われていた。アトリアはすべての会場を使った14人の美術家による大作の展示で、それぞれがこの会場のために力のこもった作品を制作していた。一方、masuii R.D.Rの方は38人の美術家による小品展で、ドローイングやレリーフ、オブジェなどバラエティーに富み、どれも手に取ってみたくなる作品ばかりであった。
 この展覧会をプロデュースする宮川真弓さんは、長く銀座のGアートギャラリーに勤務していた人だ。画廊での仕事の傍ら、展覧会を行う作家と個人的な付き合いを深めていたという。遠方の作家には、宿泊場所として川口の自宅を提供したりもした。しかし同画廊は、常連の利用者たちに惜しまれながら2003年12月に閉廊した。
 それから1年がたった2004年12月、川口のmasuii R.D.Rで、Gアートギャラリーに関わった30人の作家展が開かれることになった。それはあたかも同窓会のような盛り上がりとなった。ART SALADというタイトルは、アーティストを旬の野菜に見立て、それにプロデューサーというドレッシングをかけて味わってもらうことを願い名づけたという。
 第1回展終了後、1年半のあいだを置き、2006年3月にmasuii R.D.Rと川口アートファクトリーの2会場を使ってART SALADの第2回展が開かれた。適度に開いたメンバーたちの距離感覚が、互いの絆をかえって強めたのだろう。川口アートファクトリーには、本格的な作品づくりに挑戦したくなった5人の作家の大作が展示された。
 前述のように、第4回展となる今回は、masuii R.D.Rに川口市立アートギャラリー・アトリアを加え、さらに12月には、ソウルにあるクァンフン・ギャラリーにも巡回することになっている。ソウル展に関しては、第3回展から加わった3人の韓国人作家がその準備に当たっており、このことでまた新たな展開の兆しも見えてきた。
 宮川さんは、展示にはっきりしたテーマを掲げず、作品の内容もそれぞれの作家に任せているという。その点で作家主体の展覧会のようにも見える。企画展の場合は、展覧会の趣旨や出品者の選択を通して世に何かを問うことが多いのだが、ART SALAD展はそれらとまったく違ったスタンスを取っている。この展覧会の目的はむしろ、発表の場をつくること自体にあり、そのことで美術家たちに制作を続けるための動機づけを行っているように思える。
 戦後の経済成長の中で、作品制作を行おうとする人々は、自ら経費を負担することで発表活動を行ってきた。しかし経済成長がすでに終焉した今日、大多数の美術家たちは、心身ともにその余裕を失いつつある。制作を続ける意志はあっても、環境がそれを許さなくなったのだ。そうした美術家たちの心境を現場で直に見てきた宮川さんは、かつてGアートギャラリーが果たした役割を、別な形で再生させようとしているのではないか。そして、こうした時代だからこそ宮川さんのような人の存在が注目されるのである。
 民間で行われている展覧会の中で、ART SALADのように美術家以外の人が中心になってとりまとめている例は以外に少ない。作品の制作はもちろん、会場費の支払い、作品の運搬・展示、広報物の製作・送付といったすべての雑務を作者自身でこなすのがふつうだ。公共的な催しであるはずの美術展が作者の内で自己完結しているのは、他の先進国に見られない現象である。いったいどのようにして、日本にこのようなシステムが定着してきたのだろう。(つづく)


ART SALAD-38人による小さな作品展
2008年9月22日~10月5日
masuii R.D.R
川口市幸町3-8-25-109
電話:048-252-1735
http://www.masuii.co.jp/rdr-top.html

ART SALAD 14人展
2008年9月23日~28日
川口市立アートギャラリー・アトリア
川口市並木元町1-76
電話:048-253-0222
http://www.atlia.jp/

ART SALAD韓国巡回展
2008年12月17日~22日
Kwanhoon Gallery
195 Kwanhoon-dong,Chongro Seoul 110-300 Korea
http://www.kwanhoongallery.com


 川越で行われている「あるってアート2008」を見てきた。市街の公共地や使われなくなった民家を利用して、現代的な作品を制作している美術家たちが展示を行うという催しであった。私は最終日となる8月31日に行われたアートガイドに参加した。
 午前11時に川越駅の観光案内所前に集合し、まず最初の会場となる駅近くの三番町ギャラリーに立ち寄る。この催しの運営を行っているアルテクルブの本拠地でもある。ここで今日のコースの大まかな説明を受け、彫刻家でこの催しの仕掛け人でもある小野寺優元さんの先導でいよいよ川越の街歩きが開始された。
 散策中は、小野寺さんが作品について語り、アルテクルブの荒牧澄多さんが、その土地にまつわる歴史について語っていった。作者がどのような人で、この空間から何を感じて作品を発想したのか。そしてそれを取り巻くさまざまな修景には、どのような歴史的背景があるのか。2人の話を並行して聞きくうち、同時代に生きる人間関係の横糸と、過去から現在へと至る歴史的な縦糸とが織り重なり、作品がそこにあることの必然性がリアルに立ち現れてきた。
 この催しを行うにあたり、事前に、約70人の国内アーティストに作品案の提出を依頼したという。そのうち35名ほどから提案があり、それらの中から、場との関わりや土地の所有者との調整を経て、最終的に17名の参加者が決定した。またそれとは別に、川越と関わりの深い4人のアーティストを海外から招聘して制作を依頼した。
 アーティストたちは、開幕までの1週間ほどを市内で過ごし、共同生活をしながらそれぞれに作品を制作していった。出品者たちは、自らの展示場所を事前に確認し、その場の持つ意味を考え、そこから作品のプランを導き出している。しかし、それはあくまでも机上のプランだ。実際にその場所に留まり、そこで生きる人々と交流しながら作業を進めるうち、彼らのコンセプトはさらに磨きをかけられていったに違いない。こうした誘導のしかたは、まさに野外展を知り尽くした小野寺さんならではの演出である。
 「あるってアート2008」は、小江戸川越観光協会が主催する「小江戸川越ルネサンス事業」の平成20年度事業として実施された。国土交通省は平成17年度より、観光立国日本実現のため外国人旅行者の増加を目指して「観光ルネサンス事業」というのを展開している。その補助対象事業として平成19年度から認定されたのが、この「小江戸川越ルネサンス事業」だ。そして、小江戸川越観光協会の中に「小江戸川越ルネサンス事業推進協議会」が設けられ、今年度のひとつの事業枠をアルテクルブが受け持つことになったというわけである。
 この催しが実現するまで、川越には野外展示にまつわる長年の蓄積があった。話は1976年の八王子彫刻シンポジウムに遡る。八王子彫刻シンポジウムは、当初、八王子の青年会議所が中心となって行われていた。八王子の青年会議所と友好のあった川越の青年会議所は、この催しに関心を持ち、翌年、再開発のため空き地となった川越駅西口を使って川越野外彫刻シンポジウムを開くこととなった。
 川越高校の卒業生であった小野寺さんは、このとき八王子にある東京造形大学の学生で、八王子彫刻シンポジウムの手伝いをしていたため、必然的に川越のシンポジウムにも関わることとなった。また石彫家の田中毅さんのように、このシンポジウムに参加したことがきっかけで川越に移り住むようになった人もいる。このようにして川越は、屋外彫刻を行うための人的環境を徐々に整えていった。
 川越野外彫刻シンポジウムが行われたあとしばらく間をおき、その20年後の1997年、川越市の主催で「川越彫刻ストリートミュージアム」が実施された。これは、川越市立美術館の開館に向けたデモンストレーションとして行われ、市内の公共施設やギャラリーなどに美術作品を展示するというものだった。その代表には、やはり川越高校の出身であった彫刻家の関根伸夫さんが据えられた。関根さんは、1970年代当初から環境と造形の関係を追求していた野外彫刻のパイオニアでもあった。そして、この催しを外側から支えていた市民の有志たちが、その後、アルテクルブを結成することとなる。
 アルテクルブは、アートを通して川越の街づくりを行う市民グループだ。前述のように三番町ギャラリーを拠点として、ふだんは展覧会や街歩きの会などを行っている。ガイドをしてくれた荒牧さんや三番町ギャラリーを運営する草野律子さん、「川越彫刻ストリートミュージアム」の市側の窓口となった加藤忠正さんなど、ここには多くの建築関係者が関わっている。アートと街づくりの接点に建築家がいるというのはとても興味深い。
 ところで、今回の催しはアルテクルブが中心となり、NPO法人の川越蔵の会が協力するという体制を取っている。川越蔵の会は、よく知られる川越の街並みの景観保存を行ってきた市民グループで、彼らは現在、この景観を利用することで商店街の活性化を図っている。アルテクルブと蔵の会のメンバーはけっこう重なっているが、アルテクルブが主に同時代アートを扱い、川越蔵の会は歴史的遺産を扱うということで役割を補完しあっているらしい。
 社会という空間軸は、人間関係によって常にダイナミックに変化している。一方、歴史や伝統といった時間軸は、人々に、その場所で生きていく上でのプライドと安心感をもたらしてくれる。この2つのベクトルをうまく組み合わせることで、一定の枠を維持しながら最大限の効果を生み出す斬新なリノベーションが可能となるのではないか。そしてその着眼点を提供してくれるのが、まさにアートの力である。縦糸と横糸の妙が川越の街づくりの基盤であったことを、今さらながらに気づかされる展覧会であった。

 

あるってアート2008「アートなまなざし 小江戸川越新発見」
公開制作:2008年8月16日~8月20日
展示期間:2008年8月21日~8月31日
主催:小江戸川越観光ルネサンス事業推進協議会(第4部会)、(社)小江戸川越観光協会
協力:蘭山記念美術館、川越大師喜多院、氷川神社、三芳野神社、NPO法人プレイグラウンド、ぎゃらりー六左ヱ門、(株)岡田本店、CAFEたまのを、ぎゃらりー櫟、笛木醤油川越店、幸すし、NPO法人川越蔵の会、本町の長屋、川越織物市場の会、川越市小仙波町自治会連合会、日本聖公会川越基督協会、新富町1丁目自治会、川越新富町商店街振興組合、曙館、あけぼのホール、雑貨&カフェ『プカプカ』、三番町ギャラリー
後援:川越市・川越商工会議所・川越市教育委員会
制作・運営協力:川越市立中央小学校・埼玉県立総合高校、埼玉県立芸術総合高校・東洋大学工学部建築学科、東洋大学ライフデザイン学部人間環境デザイン学科、東京電機大学情報社会学科
企画・運営:アルテクルブ


 秋元さんの話に引き続き、藤浩志さんが、日中、行われたワークショップの話と併せて、自らの制作姿勢について語った。アーティストだけあって、彼の言葉からは、聞く人の想像力を喚起させる表現が次々と飛び出してくる。そこで彼の話を、私なりの解釈を交えながら反芻してみたい。

 藤さんはまず、このような話し合では「と」が大事だと語った。「私とあなた」の「と」である。これは、いわゆる言葉の二人称性ということであろう。一般に、抽象的な話をするときには三人称言葉の方が便利である。日本の将来をどうするかとかいったことは、私とあなたの間だけでは決めることができない。「2人のため、世界はあるの~」とは言うが、それは一時の倒錯した世界観だ。
 それに対して、目の前で起こっている問題を考えるときはやはり二人称の方が有効である。意見を真っ正面から突き合わせることができる。居酒屋でビールにするか焼酎にするか決めるのに、周りのお客さんの気持ちを推察してもしかたがない。
 このワークショップも、今、まさに北本で何が始められるのか考えようとしているわけである。そのためには、市民全体のためとか、街の将来のためといったように大風呂敷を広げたとたん、たちまち袋小路に突き当たってしまう。北本市民が考えるアートは千差万別だし、街の将来などといったら雲をつかむような話だ。見えない人のためのアートなどというものは、この世に存在しないのだ。
 さらに言えば、ここに集まった人たちだってアートの好みは皆違う。じゃあそれぞれ勝手にやればよいかというと、それでは永遠に社会性が持てない。そこでとりあえず、あなた「と」私で何ができるのかを考えようというわけである。そこを出発点として、初めて、二人称から三人称へと広がっていく可能性が探れるということなのだろう。

 藤さんは、これまで自分が行ってきたいくつかのプロジェクトについて紹介してくれた。そのひとつに「かえっこプロジェクト」というのがあった。これは、子どもたちにいらなくなったおもちゃを持ってきてもらい、それに「カエルポイント」(価格)をつけて展示する。そして、展示されたものの中から自分がほしいものを、カエルポイントで買うことができるという決まりである。飽きてしまったおもちゃは始末に困るし、交換と流通の仕組みもなかなか子どもには教えにくい。これらはいずれも、社会では扱いにくい問題として置き去りにされている。ところが藤さんは、その2つを結び付けることで、アートによってそれぞれの問題点をみごとに解決したのである。
 藤さんが作品を作るときの出発点となるのは、ふだんの生活の中で感じるズレや違和感だそうだ。それを彼は「もやもや」と呼んでいる。そして、その溝を埋めたり覆い包んでいけるものを考え出すのだ。そこで浮かんできたイメージに形を与えるうち、少しずつ作品が完成してくるわけである。
 「もやもや」を解決するために、世間の常識は役に立たない。だからといって非常識はだめだ。新たなイメージを導き出すことのできる唯一の道具を、藤さんは「超常識」と呼んでいる。
 この「超」という語には、ひとつの枠の中に収まっているのではなく、かといってその外側にあるのでもないという印象がある。要するに、異なる2つのものを超越して包括(止揚)するような、1段階上の思考を目指しているのだろう。だからこそそれを見つけ出すには、提案と実験(帰納と演繹)の繰り返しが必要となるのだ。完成されたアートはすでに常識の範疇にある。藤さんが、完成された芸術品のことを単数形で「アート」と呼び、何かを生み出すための営みのことを複数形で「アーツ」と呼び分けているのも、そこに理由がある。
 藤さんは「ヴィジョン」という言葉を好まない。すべてのものは、目的のないところから発生するという主張があるからだ。目的は生まれてくる。だから私たちは、その生まれつつある状態を大切にしなければならない。行政がヴィジョンを語るときによく使う、使役動詞的な「活性化」という言葉を、彼は能動的に「豊醸化」と言い代えた。

 藤さんの発言の中で私が特に関心を持ったのは、藤流経済学の話であった。聴講者の一人から「アートはなぜお金がかかるのか」という質問が出た。それに対してまず司会の森さんから、お金をかけないやり方もあるが、アーティストが生活をしていることも忘れないでほしいという発言があった。
 それを受けて藤さんからは、生活のことは考えなくてくれなくてよいと勇ましい答えが返ってきた。彼いわく、アーティストは、何となれば人から物をもらって食べることもできる。事実、自分は、福岡の片田舎に住んで、近所の人から野菜などの施しを受けてしのいでいる。それよりもアーティストは、与えられた予算の中でどこまでやれるのか、それをもっと真剣に考えてもらいたい。今日のアーティストの多くは、よりよい作品を作るためしばしば自腹を切って制作してしまう。藤さんはこうしたやり方に非常に批判的なのだ。
 実際に美術家たちは、これまで、作品を発表するとき自ら経費を負担するのが常だった。貸し画廊はそのよい例である。もちろん貸し画廊には、それを隆盛に導いた社会的な要因があったわけだが、現在、その必然性が徐々に薄まってきている。美術家は自然発生的に生まれるのではなく、やはり社会に承認されることで存在しているのだ。
 戦後、多くの美術家たちは、教員などを行う傍ら、作品の制作と発表を行ってきた。生業から得た収入を美術活動に転用することで、美術家としての地位を築いてきたのだ。だからそこでは、作品の発表とそれに対する対価の支払いという交換関係が成り立っていなかった。
 ところが戦後日本の復興を支えた経済成長期が終焉し、1990年以降になると、大学卒業したての若いアーティストたちには条件のよい仕事がなくなっていった。今のようすでは、かつての好景気が再来する可能性も極めて薄い。これからは、アーティストも一般的な経済原則に則り、与えられた予算の中で何ができるのかを考えざるを得なくなっているのかもしれない。
 懇親会の後、私は、アーティストもそろそろ「かえっこプロジェクト」に参加する時期かなあどと考えながら、真っ暗な北本の夜道をわが家へと向かった。(おわり)

 私が訪れたのは、初日の夕方に開かれた「オープンディスカッション」だった。このディスカッションは、毎夕、開かれることになっていたが、初日には金沢21世紀美術館館長の秋元雄史さんが来るというので、私は迷うことなくこの日に行くことにした。
 実は秋元さんは、1980年代に盛んに作品発表を行っていた美術家だった。私が画廊まわりを始めたころ、ちょうど彼も発表を始めたということもあり、当時はけっこう親しくしていた。中野にある実家にもおじゃましたし、ゆかりさんとの結婚式にも出席した。近藤幸夫さんがギャラリーなつかで展覧会を企画した折、そこに出品することになった秋元さんの紹介文をなぜか私が書いたこともある。
 ところがどんな因果か、彼は1991年、突然、直島コンテンポラリーアートミュージアム(現ベネッセアートサイト直島)開設のため、岡山のベネッセコーポレーションに勤務することとなった。もちろん美術家としての活動もそれきり途絶えた。そしてそれ以降、私たちはほとんど顔を合わすこともなくなった。この日、久しぶりにあった秋元さんは、髭を蓄え体もずいぶん大きくなっていたが、時おり裏返るハイトーン・ボイスはまったく変わってなかった。
 この日の演題は「アートでできること。難しいこと。」となっていた。私は、当然のことながらこれは秋元さん自
身が出したテーマだと思い、彼にしては意外に後ろ向きだなという印象を持った。ベネッセから金沢に移ったことで、何かプレッシャーを抱えているのではないかなどと勘ぐってみたりもした。ところが話を聞くと、これは企画者たちが勝手に決めたものだそうで、結局最後まで、アートで「難しいこと」については語られることはなかった。以下、秋元さんの談話を、思い出すままに書き綴っていく。

 秋元さんは、主にベネッセアートサイト直島の変遷について語った。美術館は何とか開館したものの、直島にはほとんど人が来なかった。そうこうするうち、ベネッセの職員からも見離されるようになった。職場にもだんだん居づらくなり、1人で島の中を回りながら住民と世間話をするようになった。彼らと話す中で改めて知ったのは、彼らもまた自分たちが住んでいるこの島を見捨てているという現実だった。
 秋元さんは、都会と同じようなやり方でここで展覧会をやっていてもだめだと思うようになった。それより、住民の協力を得て、美術館の外で展示事業ができないかと考えるようになった。彼自身にも、単に作品を借りてきて展示するのでなく、作家としての経験を活かして、アーティストとともに活動してみたいという思いがあった。それが、その後、注目されることとなる直島固有のコミッション・ワークへとつながっていくわけである。
 この活動が始まると、秋元さん自身、アーティストとの共同作業によってしばしば救われることがあったと言う。どんなときにも前向きに対処していく彼らの姿は、周囲の人たちに希望を与えてくれるのだ。「苦しいときのアーティスト頼み」などという洒落言葉も浮かんでくる。そして、その成果は2000年に行われた「スタンダード」展で結実する。秋元さんは、何をするにもとにかく時間をかけることが大切だと強調した。

 ところで美術館が開館したころ、島を訪れる観光客は年に1000人ほどだった。それが今、28万人にまで膨れ上がっている。これは、島内で受入れられる許容量をはるかに超える数だ。しかし実際には、今のところさほど大きな問題は起きていない。それは来島者の階層が影響しているようだと言う。通常、観光地で問題になるのは、まず来訪者のマナーの悪さである。ところが直島の場合は、ほとんどが美術鑑賞を目指してくる、一定以上の階層の人たちなので、そういった問題がほとんど起きないのである。
 近年、ベネッセは、観光客向けのサービスと、住民向けのサービスという二重構造化を目指している。住民向けの部分では生活環境の改善が主となり、そこで行われる活動は一般的な美術の枠を超えてきている。北川フラム氏が館長となった今、ベネッセ直島ミュージアムは新たな段階に入っている。(続く)

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