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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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 9月20日、東京電機大学鳩山キャンパスで開かれている「国際野外の表現展」を見に行った。予定はしていたものの、台風がまっすぐ近づいてきており、予報ではこの日、関東に達することになっていた。私は半ば出かけるのを諦めていたのだが、一夜明け目が醒めてみれば、台風一過の青空から太陽がぎらぎらと照りつけているではないか。午後1時から始まるアートガイドに間に合わせるため、私は大急ぎで家を飛び出した。
 予想どおり、アートガイドの集合場所にはほとんど人がおらず、参加者は結局、私と間地紀以子さんの2人だけとなった。小野寺優元さんのガイド姿はかなり板に付いてきたが、それにしても後を行くのが我々2人だけというのはちょっと寂しい。
 さて、「国際野外の表現展」は今回で6回目となる。他に、東松山にあるギャラリー亜露麻と川越市立美術館がそれぞれ会場となっている。ちなみに間地さんは、この川越会場の出品者だ。私は以前、「国際野外の表現展」の記録集に、この展覧会の大まかな経緯について書いたことがある。同展の沿革を知ってもらうためその一部を引用しておく。

  ここで「国際野外の表現展」の歴史を簡単に振り返っておこう。出発点は意外と古く、1977年に開幕した「埼玉美術の祭典」まで遡る。この催しは埼玉に活動の拠点を置く現代美術家の集いであり、当初はさいたま市にある埼玉会館で行われていたが、埼玉県立近代美術館の開館に伴い、1982年から同館の一般展示室に会場を移して行われるようになった。
  埼玉県立近代美術館は北浦和公園の一角に位置していたため、「埼玉美術の祭典」の事務局を受け持っていた彫刻家の小野寺優元らは、美術と市民の溝を少しでも埋めてゆうこと、この年から室内展と並行して北浦和公園を使った「埼玉美術の祭典・野外展部門」を実施するようになった。そして1988年にはこの野外展部門が独立し、「野外の表現展」と名打って新たな出発を図ったのである。「野外の表現展」はその後、北浦和公園を基本会場として、周囲にサテライト会場を持ちながら1992年まで続けられた。
  城下るり子は、この最後の年に「野外の表現展」に参加した美術家のひとりである。城下はその後も、自然との共存を目指す国内外の野外美術展に積極的に参加するようになった。こうした活動の中で培った人脈を活かし、2001年、城下は東京の大森ベルポートにおいて、前出の小野寺などにも声をかけ、100人以上の出品者を擁する「OBP美術展」*を開催した。
  そして、たまたまその催しに協力者として参加していたのが、東京電機大学で情報社会学を専攻する西山佳孝であった。西山はそれまでも、地域と大学との連携を目指して、同科の市野学教授らと、住民意識を知るためのフィールドワークを行っていた。「OBP美術展」に関わりながら西山は、美術家たちの活動が地域を活性化させる上で大きな力を発揮するに違いないと確信するようになった。その後、里山に恵まれた東京電機大学鳩山校で小野寺と城下を市野に引き合わせるために、西山はさほど時間を要しなかった。
 (松永康「1枚の白地図から」、『野外の表現展2005比企記録集』より)

 この展覧会の中心にいるのは言うまでもなく小野寺さんであるが、そこに美術家の城下さんや電機大の市野さん、学生の西山さんといった人たちが絡み合い、それがひとつの渦となってこの催しが誕生したわけである。ここに至るまでさまざまな紆余曲折があった。しかしその風雲が過ぎ去ったあと、あたかも台風一過の今日のような青空の下で、新たな物語が稼動したのだった。(つづく)

*「OBP美術展」は大森ベルポートにおいて毎年行われているが、その一環としてこの年には、城下の企画により「国際環境美術展in Omori 2001」が開催された。



国際野外の表現展2008比企[第6回展]

[1] 東京電機大学鳩山キャンパス/東松山市千年谷公園
会期: 2008年9月13日(土)~10月12日(日)
時間: 9時~16時
住所: 比企郡鳩山町石坂 TEL 049-296-0042
入場料: 無料

[2] 川越市立美術館
会期: 9月10日(水)~9月18日(木)(16日休館)
時間: 9時~16時30分(最終日は15時まで)
住所: 川越市郭町2-30-1 TEL 049-228-8080
入場料: 無料

[3] 亜露麻ギャラリー
会期: 9月22日(月)~9月29日(月)(火曜休)
時間: 11時~18時(初日は13時より、最終日は16時まで)
住所: 東松山市六反町2-13 TEL 0493-25-0080
入場料: 無料

参加作家:[海外作家]9名
 シャスティン・スヴァンベリー(スウェーデン)、エヴァ・ホグベリー(スウェーデン)、
 アガサ・ハットン(シンガポール)、ヴァージニア・ジョーンズ(オーストラリア)、
 ヘルガ・クメルカ(オーストリー)、ドウィ・マリアント(インドネシア)、
 パウエル・ヤンゼンス(ラトビア)、梶浦聖子(インドネシア)、
 ラウラ・フェルデベルガ(ラトビア)
[国内作家]31名
 木村勝明、三木祥子、イ・ソンジュ、望月月玲、間地紀以子、本多真理子、
 金子清美、野見山由美子、高田芳樹、高田純嗣、荻原修、山口百子、沼田直英、
 石田泰道、佐々木薫、池上純子、谷口勇三、三宅光春、後藤章子、北里哲郎、
 高原和子、石川雷太、石坂孝雄、吉田佑子、植村佳菜子、桝本純子、高島芳幸、
 勝木繁昌、吉川信雄、藤井達矢、谷垣内信一
主催: 国際野外の表現展比企実行委員会
協力: 東京電機大学理工学部、独立行政法人国立女性教育会館、川越市立美術館
後援: 埼玉県・埼玉県教育委員会・東松山市・鳩山町・オーストラリア大使館・
 シンガポール共和国大使館・大韓民国大使館韓国文化院・スウェーデン大使館・
 ドイツ連邦共和国大使館・オーストリア大使館・インドネシア大使館・
 Artist in Nature International Network・アルテクルブ・CAF.N協会

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 明治以降、西欧から導入された近代美術は、まず知識階級を中心に意識の近代化を促してきた。戦後になると美術教育とも連帯して、個人主義的な思考方法を国民全体に行き渡らせるようになった。ところがその後の急激な経済発展に伴い、人々のアイデンティティ形成は生活様式の変化の速さに追いつかなくなってきた。最近になって集団主義や国家主義の再評価が行われるようになったのも、そのギャップを埋めるための一種の揺り戻しなのだろう。
 少子化問題や高齢化問題といった難問が山積する中、コミュニティ・アートは、ひとつの対症療法として各界から財政的支援を受け、今後もしばらくは発展していくと思う。そこで活動するアーティストには、これまでのような過大な自己主張は認められない。それよりもアートは、人間関係を円滑化させる道具として、自分ではなく他者のために役立てられるべきである。自分本位を謳歌した戦後世代に対し、コミュニティ・アートを担う若い世代は、そうした批判意識さえ内在させているように見える。
 一方で、では日本はどこまで近代化したのかという問題がある。交通においても産業においても、私たちの生活環境はたしかに見違えるほど整った。ところがその繁栄の裏には、集団いじめや残業代の未払い、希望格差や自殺の増加といった人災が止むことなく増加している。こうした制度的不具合の最大の要因は、結局のところ集団と自己の境界のあいまいさにあるのではないか。そしてそれを根深く引きずらせているのは、未成熟な日本人の自己意識にある。
 おそらく美術もまた、集団と自己をいかに調停するかという課題と向き合い、新たな取り組みを開始
しなければならない時期にきているのだろう。これまでのように、自分本位に生きられる時代でないことは明らかだ。しかし、だからといって、せっかくここまで積み上げてきた表現活動の個別性を無碍に捨ててしまってよいものだろうか。人は自己のみで生きられず、かといって自己を消すこともできない生き物なのだ。そしてそれは、人類永遠のテーマでもある。(おわり)

 では、アーティストは今後、コミュニティの中でその存在意義を失っていくのか。いや、決してそんなことはない。いくつかの地域で、アーティストの固有性を武器に、地域住民と役割を分け合いながら活動を展開させようとする動きも確実に見られるからだ。
 たとえば、以前このブログでも紹介したが、川越市では街興し事業と並行しながら、街並みを利用した現代美術展がときどき行われている。そこでは美術家固有の感性により、展示場所に潜む歴史を象徴的に視覚化していく。そしてその地で暮らす人々は、作品からの示唆を受けながら地域性を活かすための方法を考えるのだ。ここにはコミュニティづくりに向けた、美術家と住民との自律的な役割分担が見られる。
 このように、アーティストの感性によって生活空間の意味を変換させる現代美術プロジェクトとしては、1986年にベルギーのゲントでヤン・フートが企画した「シャンブル・ダミ」展が知られる。日本では、東京のギャルリー・ワタリがヤン・フートを招聘し、1991年と94年に石川県鶴来市で、街中の古い建物を利用した「ヤン・フートIN鶴来」を開いた。それはその後、市民に引き継がれ「アートフェスティバルIN 鶴来」として何度か続けられた。
 またそれとほぼ並行し、1990年から九州の福岡市で、山野慎吾さんたちが中心となり「ミュージアムシティ天神」が開催された。三菱地所アルティアムを中心に、美術大学の学生から活躍中の美術家までが市内のあらゆる場所で作品の展示活動を繰り広げた。彼らは当初このやり方を、野外展などと同様にパブリック・アートの一環として捉えていたようだ。博多での成功以来、この方式は全国に飛び火し、今日では「ストリート・ミュージアム」という名で定着している。
 このストリート・ミュージアム方式は、福岡に先駆ける1989年、長野県上田市で行われた「アートコンタクト」という催しですでに実践されていた。これは、現在、美術教育で活躍する三澤一実さんが企画したものだ。当時、三澤さんはこうした展覧会のやり方を「脱美術館」という言葉で表していた。この言葉には、美術館に展示するような固有の美術作品を前提とし、その上でそれらを日常の場に引き出そうという意図が見られる。
 日本のストリート・ミュージアム方式の歴史はさらに古く、実は江戸時代まで遡ることができる。四国は土佐の赤岡で、夏の夜、繪金の描いた屏風絵を軒先に並べ、通りを往く人に披露するという習慣があった。それが地元の商工会により1977年から興行化され、有名な「絵金祭り」となる。これはまさに今日のストリート・ミュージアムの原型と言えるものだ。
 このように考えると西川口プロジェクトは、本質的にはコミュニティ・アートではなく、ストリート・ミュージアムに近いように思う。たとえば丸山芳子さんの展示は、見る者が無意識に抱いている予見を鋭く暴露させる。その作品に触れることで、私たちは改めて地域社会を見直すきっかけを与えられる。しかし作品は、人々のそうした意識の変化と関わりなく、常に自律して私たちの目と向き合い続けている。
 また、もみじの万華鏡を作った参加者たちは、同じ場所と時間にヒサヨシさんと作業を行ってはいるが、そこで生み出され持ち帰ることができるのは個々の作品と記憶だけである。たとえそこで参加者どうしの交流が生まれたとしても、それがアーティストの活動に直接の影響を与えることはおそらくない。
 ライブハウスハーツで展示していた田中大介さんの作品は、西川口についての疑問をインターネットのホームページで紹介し、それを読んだ人が質問に答えるというものだ。作者が媒介となり人と人とを結び付けていくという点で、コミュニケーションを通したアートではあるが、そこはあくまでネット空間というバーチャルな場であり、地域社会という現実空間とは明確に位相を分けている。
 こうした表現方法はいずれも、コミュニティ・アートの要素である「共同制作」や「コミュニティ」とどこかで関わっている。しかし、「アーティストと住民が直接影響を及ぼし合いながら」展開しているとはいいがたい。作者と作品、そして作品と観客の間には一定の隔たりがあり、むしろそれらが暗示的に影響を及ぼし合うことを望んでいるように見える。そうだとすれば、それは近代以降の美術のあり方とあまり変わっていない。(つづく)

 ところで私の理解では、コミュニティ・アートの基盤となる考え方はヨゼフ・ボイスの「社会彫刻」にあると見ている。ボイスは1972年ごろから、社会を一つの芸術的な総体と捉え、そこに精神的な深みを与える鍵は芸術家が握っていると考えるようになった。芸術家が作るべきは物体としての作品ではなく、人と人の結びつきそのものなのだ。それを実現させるために世界自由大学を創設し、また政党としての「緑の党」を推進することにもなる。おそらくそうした考えから影響を受けて、イギリスでのコミュニティ・アートも始動したのではないか。
 一方、日本国内でコミュニティ・アートを標榜した動きが社会化するのは、1996年に始まる「トヨタ・アートマネジメント講座」だったように思う。1990年代に入ると、アメリカやイギリスでアート・マネジメントの理論を学んだ研究者が次々と帰国する。その手法と考え方を広めるため、この講座は毎年、開催地を変えながら日本全国で行われた。
 同事業の報告書には、「アートを通して地域社会を活性化する『地域のアートマネージャー』を各地で育成し、行政・文化機関・地域など、さまざまなレベルで地元密着型のアートマネジメントが盛んになることを目的に、活動を推進」したと記されている。「アートを通して地域社会を活性化する」ことは、言うまでもなくコミュニティ・アートの本分である。
 さらに2002年には「アサヒ・アート・フェスティバル」が始動する。そこでは「アートと社会をつなぎ、両者の関係を再構築」することを目的としたアート、すなわちコミュニティ・アートがその助成の対象となった。あたかも事前に計画されていたかのような企業どうしの見事な連携により、コミュニティ・アートは全国規模で数多くの実践を促すこととなる。そしてアーティストの側からも、藤浩志さんのようなコミュニティ・アートの専門家が登場する。
 ところが最近、広報資料を見ていても、誰がアーティストとして参加しているのかよくわからない催しをしばしば目にするようになった。固有性を持ったアーティストはすでに不要となり、むしろ集団的な営みの中から自然発生的に生まれてくる人々のつながりを「アート」と呼んでいるようにさえ思える。そこでは、下山さんの定義を地でゆく、純粋なコミュニティ・アートが生まれ始めているのかもしれない。
 たとえば埼玉では、2006年から文教大学の学生たちが越谷市内を使い「まちアートプロジェクト」を展開させている。ここでは、学生たちがアーティストの代わりとなってものづくりを行いながら、住民との交流を進めている。前述のように、若者は文化的な刷り込みが少ない分、どんな地域にも抵抗なく溶け込んでゆけるため、コミュニティづくりのためには、へたにアーティストを使うよりよほど即効性があるようだ。
 また加須市では、昨年、小学校の児童が自分たちの作品を町内の民家に掲示する「まちかど美術館」という催しが行われ、住民から期待と賛同が寄せられた。子どもが中心とは言っても、当然そこには大人たちの全面的なサポートがある。そこで必然的にコミュニティづくりが促されるのである。「子はかすがい」と言うが、子どもは地域を結ぶための強力な動機づけともなる。
 ここには、アイデンティティの確立を求めてきた近代以降の美術の文脈に収まらない、まったく新たな「アート」の姿が見える。アーティストがいたとしてもそれはひとつの役割であり、参加者との間に優劣の差はない。言い方を換えれば、すべての人はアーティストなのだ。これもまた自然適応の結果であり、ポストモダンに向けた美術の進化の一形態という捉え方もできるだろう。そしてそれこそが、ボイスの提唱した「社会彫刻」の完成形なのかもしれない。(つづく)

 展示を見終え、私はmasuii R.D.Rで行われるトーク・イベントへと向かった。そこでは出品者である丸山芳子さんや陳維錚さんのトークと合わせて、NPO法人「コミュニティアートふなばし」を主宰している下山浩一さんが、「誰にでもわかるコミュニティーアート」というテーマで話をした。下山さんは、1997年頃から船橋で街を活性化させるための活動を続けている、コミュニティ・アートの草分け的存在である。
 中で、住民といっしょに活動していると、若いボランティアたちが地元のおじいさん、おばあさんによく呼び止められるという話があり、私はそこに耳が止まった。彼らは、かつてその街で起きたことや買い物する場所、大工道具の使い方といったことまで、自分の知っていることをとにかく人に伝えたがっているそうなのだ。そしてそれを聞いてあげられるのは、まだ社会の中で確たる位置を得ていない若者たちなのである。
 そういえば以前、「越後・妻有トリエンナーレ」でボランティアとして活動している女性から同じような話を聞いたことがある。「越後・妻有トリエンナーレ」とは、新潟県が主催し、過疎化の進む山間地域で3年に1度ずつ行われている大がかりな美術イベントだ。その女性は第一回展のときからこの事業に参加し、以降、毎回、同地に滞在するようになった。
 新潟の寒村に住んでいるのは、すでにみな高齢者ばかりだ。そこに大学生ぐらいの若者が派遣されてくる。若者たちが体験する日々の暮らしは、何もかもが新鮮なことばかりだ。その純粋な興味に触れ、住民たちも少しずつ自分たちのことを語りだす。まだ都市社会にすれていない若者には、文化差という障壁がないのだ。
 住民たちはいつしか、近代化の中で省みられることのなくなったその生活に、ある種の誇りを取り戻し始める。トリエンナーレという時間差が、双方にまた適度な思慕の情を募らせるらしい。こうして若者たちは、その地域にとってかけがえのない新鮮な空気となっていく。
 首都圏では、シャッター通りとなった商店街を活性化させるための取り組みがよく紹介されるが、そのとき経済効果の議論だけに始終しがちだ。しかし、真の意味で住民に元気を与えるのは、他者に認めらるという一人一人のプライドなのである。そしてそれを高めるのは、話を聞いてくれる人とのコミュニケーションの力に他ならない。美術にはさまざまな利用価値があるが、コミュニティ・アートは人から人への伝達力という部分を最大限に利用しているのだと思う。
 下山さんは、コミュニティアートふなばしの紹介文で、コミュニティ・アートについて次のように書いている。

 演劇・ダンス・美術・映像等の作品の共同制作を通じて、地域コミュニティ内の構成メンバーの親睦をはかるものから、コミュニティにおける課題の共有化や解決を狙う社会性の高いものまで、さまざまな試みが行われてきました。
 このバラエティに富むコミュニティアートと呼ばれるプログラムに共通して見られる特徴として、「アーティストと市民の共同作業によるプロジェクトであること」「参加者の作品に対する積極的なコミットを奨励しプロセスを重視すること」「参加者の違いを認め尊重した上での創作活動であること」が挙げられます。

 ここでは「作品」と「アーティスト」、「共同制作(作業)」、「コミュニティ」という言葉の関係が述べられている。前段では、「作品」という動機づけから「共同制作」というプロセスを経て、最終的に「コミュニティ」の再生へと至る手順が示される。また後半では、「アーティスト」が主導するのではなく、市民と対等な「共同作業」の必要性が強調される。要するにそこでは、アーティストと住民が直接影響を及ぼし合いながら、その活動が有機的に進展していくことを企図しているのである。
 トークの中で下山さんは、コミュニティ・アートは、コミュニティづくりが目的ではあるが、より実りあるものとするために優れた活動を行っているアーティストを選ぶことが重要だと語った。アーティストと参加者は平等だと言うものの、そこにはやはり魅力あるアーティストの存在が前提となっている。どんなにリベラルな社会になったとしても、人々を牽引するのは、やはり秀でた能力を持つ人間でなければならないということなのだろう。そうしたことから察するに、アートを手段と捉えているようなこの趣旨文も、本当のところ事業をよりスムーズに運ぶための常套句であることがうかがえる。(つづく)
 

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