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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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 日本では、近代的な美術の方法論は西欧から輸入された。つまり日本の近代美術は「型」を受け入れることから始まったわけである。西欧の型に倣って作品を作り、それがまた型どおりの洋館に並べられた。日本の掛け軸は床の間に、ヨーロッパの額絵は応接間にと、それぞれ空間の持つ歴史性に即して作られたが、それとは対照的に、日本の近代美術はかなり特異なスタートを切っていた。
 そのため近代的な美術の考え方を受け入れた人々は、洋画日本画を問わず、作品をできるだけ周囲の環境から切り離して成立させようとするようになった。和室に洋画を飾れるし、日本画もまた洋室に飾れるというわけだ。こうして、その場の歴史と関りなく飾ることのできる作品が次々と生産され、見る側もまたそれに慣れることを求められた。
 小野寺さんは、美術作品が置かれる場にはサイトとスペースの違いがあるという。私たちが生活する場には無限の意味と歴史が堆積しており、建物や道路はもちろん、路傍の草1本にも来歴というものがある。そうしたさまざまなしがらみを背負った「サイト」の中で私たちは生きている。
 一方で「スペース」とは、その場にまつわる意味や歴史を剥ぎ取った空間のことだ。美術館や画廊の展示室などは、できるだけこの「スペース」に近づけるように作られている。ホワイトキューブと呼ばれる極めて特殊な室内で、人々は浮世のしがらみから離れ、視覚的な居雑物を取り払ったうえで美術作品と接することができる。
 しかし純粋に抽象的な「スペース」というのは、現実の世界にはあり得ない。どのような場であっても、必ず何かしらの歴史と意味を内包している。そのことを多くの美術家が理解していないため、作品を時間軸の中に落とし込めずにサイトから遊離させてしまっている。小野寺さんは次のように書く。

  現代美術というアートの中には、Spaceという空間を求める種と、Siteに生息しようとする種があるようです。すなわち、美術館や画廊のように完全に個性を消去した展示専用空間(Space)に作品を展開し、自らのコンセプトを発信しようとする場合と、深く歴史や文化に根ざした個性豊かな場(Site)に、その場の特異性を読解し、自己の思想にもとづき作品のコンセプトを立ち上げ、作品を展示する場合とがあります。
(小野寺優元「ネビュラという渦」、『2008CAFネビュラ作品集』より)

 これまで美術家は、より多くの人々と地域に美術を広めるため、たゆまぬ努力を続けてきた。しかしその根底に、サイトとスペースにまつわる混乱があったため、そうした努力の多くが無になってしまっている。遠まわしに書いてはいるが、これは長い間、放置されてきた重大な欠陥だという憤りが行間から読み取れる。
 美術家であれ美術家以外であれ、まず展覧会を企画する人間の意識を変えることが先決だと小野寺さんは言う。美術家は常に、現実に潜む意味や歴史を視覚化するため感性と技術を磨いている。そして展覧会の企画者は、与えられた場の特性を最大限に引き出すことのできる美術家を選ぶ。そこに場とつながる何かが備わっていることで、作品は初めて人々を動かすことができるからだ。
 陽はすでに傾き、学生の姿もまばらとなった。しかし台風一過の校舎には、ここからまた何かが始まるのだという予感が満ち満ちていた。そして、改めて作品群を見渡す私の目には、国際野外の表現展の展開を巧妙に仕組んできた小野寺さんの手腕と成果がくっきりと浮かび上がってきた。(おわり)

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 この日、ボランティア講座でレクチャーをするため出品者のひとりである本多真理子さんが来ていた。これもまた公開プレゼンテーションの一環である。自分の作品に対して美術家はいったい何が語れるのか、私はこうした興味も手伝いこの講座に参加した。
 本多さんは、千年谷公園の橋の欄干と池の中の柵を使い、その間に何重にも赤い紐を往復させる作品を制作していた。それらの橋や柵は、風景の中で極めてデザイン本意に作られており、吊り橋風の構造にも養殖囲いのような柵の形状にも何ら必然性はない。それなりに目を引きはするが、その意味でこれらは機能を伴わない空疎な造形である。
 そうした状況に対面し、本多さんは直感的に、そこに紐を絡みつけたいと思ったらしい。その結果、橋と柵の間には図らずも有機的な関係が生じ、ある種、視覚的な必然性がもたらされたと小野寺さんは評価する。さらに本多さんが作業をしている間、その進展を毎日確認しにくる女性がいたり、学級新聞に掲載したいとインタビューに訪れる子どもも現れた。そこでは、公園に出入りしている人たちとの意思疎通という人的必然性も生まれていた。
 美術家は作品を置く場所から何らかの示唆を受け、それを手がかりに制作を開始する。しかし作者の手を離れるとき、作品もまた制作過程という過去を捨て、今度は置かれた場との間で自律的な関係を結び始める。作品に埋め込まれた作者の直感がその場の意味や歴史性をすくい上げ、そこに関わる人々とともに次なる物語を紡ぎ始めるのだ。
 美術作品は、置かれる場の意味や歴史の説明材料になってしまってはいけない。それは不動の記念碑であって、そこから新たな物語が生まれる余地はない。しかしだからと言って、その場の歴史や意味を無視してもだめだ。結果的にそれは、公園の橋や柵と同じように風景の中のアクセントとなってしまう。彫刻は周囲と隔絶しつつも、その内側に、その場に対する作者の思念が込められるべきである。そのことではじめて、美術作品としての固有の存在を発揮するのだと思う。
 作品が作者の手を離れた以上、それはすでに作者のものではない。作品はすでに、そこで独自の位置を築き始めている。だとすれば、その作品に対して作者が語れるのは、これから始まる物語づくりの1人の参加者として、自分がその場とどのように関わってきたのかということであろう。
 美術家たちはこれまで、作品をいかに作るかという作品内部の問題に意識を集中させてきた。さらにそれらは、何の手がかりもない空虚な展示空間に置かれ続けため、作品を独り歩きさせる機会も逸してしまった。作品について語るには、いったん作者から引き離さなければならない。ところがこうした状況があったことで、美術家たちは作品を通したコミュニケーション・スキルを磨くことができず、見る側との間に次第に深い溝が築かれていったのだ。このことが日本で現代美術が流通しにくい最大の原因だと、小野寺さんは指摘する。(つづく)

 このとき埼玉美術の祭典の実務を担っていたのが、前衛運動時代から五月女さんと行動を共にしていた高木康夫さんだった。ところが間もなく五月女さんが日本を離れることになり、急遽、事務局長の任を高木さんが負うことになる。そして、高木さんが代表を受け持つこととなった後、事務局長を引き継いだのが小野寺さんであった。
 高木さんは、美術家の間に上下のヒエラルヒーが生まれることをとても嫌っていた。そこで、展覧会の運営形態をしばしば変更することで、権威の生まれにくい体制を維持しようとした。間もなく名称から「埼玉」を取り「現代美術の祭典」として出品対象を県外に拡げたり、その後「コンテンポラリー・アート・フェスティバル」として時代に即応した軽快さを印象づけたりしたのもそのためである。団体展としてのこの流動性が、県展との違いを示す最も大きな特徴となっていった。小野寺さんは、こうした高木さんの先見性に強く感化されたという。
 現在、この展覧会は、コンテンポラリー・アート・フェスティバルの頭文字のCAFに、星雲という意味のネビュラという言葉を添えて、「CAFネビュラ」という名称で続けられている。CAFネビュラでは、美術館内の催しにとどまることなく、美術家のつながりを星雲のようにどんどん外へ拡げていくことを目指している。
 「埼玉美術の祭典」は当初、埼玉会館で行われていたが、1982年に埼玉県立近代美術館が開館したことで会場を同館へ移すこととなった。そして同時に、小野寺さんの発案で、野外作品を対象としたコンクール部門を新設し、「野外の表現」展として美術館のある北浦和公園の中で行うことになった。「美術」ではなくあえて「表現」という言葉を前面に出したことで、この催しは美術という対象枠をさらに広げて飛躍していく。
 かつて彫刻には台座が不可欠であった。それは作品の世界を現実の世界から切り離すための、絵画で言えば額縁のような役目を担っていた。ところが野外の表現展では、この台座を排し作品を地面の上に立たせることを原則とした。そのことで作品を現実世界に溶け込ませ、さらに周辺地域との有機的な連結を志向したのだ。そして間もなく、出品者自らが各地で展示を展開させるサテライト展が行われることとなる。
 たとえば鍛金作家の関井一夫さんは、大井町の雑木林の中に義足のような作品を置くことを計画した。そこはふだんから近所の中学生たちがたむろしている場所であり、当初は作品に危害が及ぶのではないかと懸念された。ところがいったん作品が置かれると、その空間に極めて強い緊張感がもたらされ、生徒たちは逆にそこでの悪業を慎むようになったという。
 このようにさまざまな実験を行いながらも、北浦和公園の使用規定が厳しくなったため野外の表現展は1992年をもって終了する。しかし、前述のような経緯を経てその10年後の2002年、東京電機大学鳩山キャンパスにおいて「国際野外の表現展」が新たに開催されることとなった。
 国内だけでなく海外からもアーティストを集めることで、大学関係者や周辺住民への刺激も期待できた。海外アーティストと接触する機会を作るため、自作についてプレゼンテーションを行う場も設けた。日本の美術家たちはこれまで作品についてあまり語る機会がなかったが、彼らの説明手法に触れながら、それぞれがいかに人に伝えることができるかを工夫するようになった。自らの活動について適切に言葉にできなければ、異文化の地でその意義を理解してもらうことは不可能に近い。(つづく)

 さて、同展の中核をなす小野寺さんであるが、以前、紹介した川越の「あるってアート」展のアート・ディレクターでもあり、また埼玉県立近代美術館で行われている「CAFネビュラ」展の事務局も行っている。小野寺さんが、どのような生活をしながら毎年これだけの展覧会をこなしているのか、私にはどうにも想像できない。しかも、そこに奥さんも加わり、家族総出でこれらの催しを支えているらしいのだ。
 小野寺さんは、柔和な輪郭線と表面処理を持ち味とする石彫家である。「母石」「双太母」といった題名は、見る者に母性や豊穣さといったイメージを喚起させる。一方で、「埼玉美術の祭典」の事務局を受け持つようになってからは、同時に優れたコーディネート能力を発揮するようになった。ここで、この国際野外の表現展を支えてきた小野寺さんの活動の一端を振り返ってみたい。
 1971年、東京造形大学彫刻科に入学した小野寺さんは、大学と研究科を通して8年間そこに在籍することとなる。その間、同大の教員だった大成浩さんが中心となり、大学のある八王子市で八王子野外彫刻シンポジウムが開始され、その手伝いをすることになった。この頃から各地で野外彫刻展が一斉に行われるようになるが、八王子のシンポジウムがその口火になったと言われている。
 1980年代に入ると折からの好景気に突入し、地方自治体による野外彫刻の設置事業が一種のブームとなる。公園や公共施設には軒並み彫刻作品が置かれ、また商店街や住宅地に彫刻を置く「彫刻のある街づくり」構想、さらに道路の修景のために彫刻作品を延々と置いていく彫刻ロードなるものも出現した。こうした受注制作をこなしながらも小野寺さんは、彫刻が単に景観づくりの道具としてしか捉えられていないことに疑問を抱くようになった。
 大学を出たあと、小野寺さんは県立新座高校で美術科の非常勤講師をしていた。そこで同僚だった根岸和弘さんに、1979年から「埼玉美術の祭典」への参加を誘われた。同展はその前々年に浦和の埼玉会館で始められ、絵画や彫刻、書や工芸といった枠を取り払って領域横断的な展示を行い、美術団体展の新たな方向性を打ち出していた。
 埼玉では戦後、県内で美術家を志す人たちを対象に埼玉県展が行われるようになった。県展は県教育委員会の主導で始められ、主に美術教師たちが現場の管理運営を行っていた。そして1970年代に入ると、中高の美術教師の間では、県展に出品することが暗黙の了解事項となっていた。
 ところが県展の、特に絵画部門では、高田誠氏や渡辺武夫氏といった日展系の美術家が中枢を担っており、具象系の応募作品が優遇される等、選考基準に一定の方向性があった。日展の絵画部門自体が、そもそも具象画の発展を標榜していたからである。そのため美術教師の間では、県展向きの作品を制作している人とそうでない人の差が表面化してきた。日本の美術教育は制作指導が中心だったため、教師にも制作技能の高さが求められ、その結果、県展に出品していない美術教師は自ずと正当な評価を得にくいという状況が起こったのである。
 1960年代に埼玉県内で前衛美術運動を展開させていた五月女幸雄さんもまた、そうした美術家兼任教師のひとりだった
五月女さんは前衛時代からの人脈を活かし、こうした不遇な教師たちを集めて埼玉の第二県展とも言える「埼玉美術の祭典」を立ち上げた。そしてその存在を広く知らしめるため、小野寺さんのような若手の美術家が数多く動員されたのだ。(つづく)

 そして今年も、例年どおり同展は実施された。ただひとつ、私にとって特別な想いがあった。それというのは、海外からの出品者の窓口となっていた城下さんが、この年の2月に急死していたことである。
 城下さんは1980年代から美術家としての活動を始めた。比較的遅いスタートだったが、その初期から一貫して自然環境をテーマにした制作を行っていた。だからその後、野外での発表を積極的に行うようになるのは自然な流れだった。野外展は当時から各地で盛んに行われていたが、城下さんのように環境問題と絡めて制作を行っている作家はまだ稀であった。
 1996年、城下さんはスウェーデンで行われた野外美術展に参加した。そこには、環境保護に対して高い意識を持ったドイツのアーティストが数多く出品していた。憲法の中に「自然を守る責任」について盛り込むなど、ドイツ政府は早くから環境問題への取り組みを開始しており、芸術家にもそうした規範意識が行き届いていたのだ。彼らとともに活動を行う中で、城下さんは自分が目指していたものが間違いでなかったことを強く確信した。
 これを機に城下さんは、水を得た魚のように海外の野外美術展への参加を開始する。また国内の展示でも、自然との共存を意図した作品を次々と発表するようになった。1998年に環境保護に関する京都議定書が発表されると、地球温暖化という切迫した事態が日本でもにわかにクローズアップされる。そして野外展に出品する国内の美術家たちの間にも、自然環境を意識した表現が目立つようになってきた。
 そうしたところへ飛び込んできたのが、自然に恵まれた比企丘陵にある東京電機大学鳩山キャンパスでの野外展の話だった。海外で優れた活動を展開している美術家たちを今度は日本に呼びたい。そして日本の人たちにも、美術を通して自然環境についてもっと考えてもらいたい。城下さんの海外での活動はいつしか、自らの資質を高めるためのものから、日本に紹介すべき作家を探すためのものに転換していった。
 ところで私が初めて城下さんの作品を見たのは、1990年の多摩川野外美術展に出品した「地球を食べちゃったのは誰」と題した作品だった。円形のアクリル板を等間隔に重ねて大きな球体を作り、その一段一段に、絵具をチューブから絞り出したような色とりどりの陶のオブジェを並べていた。タイトルとその形から連想して思わず「ウンコみたいですね」と言ってしまい、初めて会った城下さんに苦笑されたのを覚えている。今、思えば、地球環境の話でもしておけばよかったと思えてならない。
 城下さんは、1994年の秋から95年の春にかけて、日高町にあったギャラリーぐばくの前の田んぼを使い、田尻秀樹さんとコラボレーションを行ったことがある。田尻さんは廃材を用いた表現を長く続けており、城下さんと同様、資源のリサイクルに対して深い関心を持っていた。その展覧会の記録集に寄せた私の言葉の中に、「考え方の近い人達ほど、シビアなぶつかり合いになる」という言葉が見られる。志向性が近いゆえにほとばしる2人の鮮烈な火花に、私はたぶん圧倒されていたのだと思う。城下さんはそれほど真摯な人であった。そして、その城下さんの死をさらに衝撃的なものとしたのは、田尻さんもまたその前々年に急死していたという事実
であった。
 支柱を失っても展覧会はまた巡ってくる。それは刈り取られた草がまた生えてくるようなものだ。展覧会が自然に回転し始めるにつれて業務は細分化され、今、多くの人たちによって受け継がれている。(つづく)
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