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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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所沢や入間、飯能といった埼玉の西部地域には、県外から多くの美術家が移住している。そしていったん住み出すと、なぜかそこから離れなくなる。美術家というのは概して引越しを繰り返すものだが、この地域の人たちからだけは住所変更の通知を受けることがあまりない。もちろん東京に出るのに便利というのが第一だが、何かきっと別の理由があるに違いないと前々から思っていた。
さて、昨年の「創発」では、「アトリエキャトルの仲間達+α」展が彼らの本拠地であるアトリエキャトルで開かれた。今年は同じタイトルで、会場を「ギャラリーにほ木」に移して行うことになった。昨年の出品者に加え、大野勇吉さんと吉留要さんが新たに参加する。
「ギャラリーにほ木」を運営しているのが大野さんで、旧宅を改装して12年前にオープンさせたものだ。小さいころから絵の上手な子と言われていたのだが、そのころは絵を習うなどという時代ではなかった。その後、この地で農業と養鶏業を営んできたが、40年程前から貸倉庫業へと転向するようになり、少しずつ生活に余裕がでてきた。そこで20年ほど前、五十の手習いとして改めて絵を描き始めたのがこの世界に入るきっかけだったそうだ。
まず市内に教室を持っていた杉田五郎氏の下で2年間学んだが、教室が閉鎖されたため世田谷の方の教室まで2年間通った。そんなとき、海外から戻ったばかりの吉留要さんが近くに住み始めたことを知り、今度は知人とともにそこに通うようになった。
それまでは好きに描いていればよったのだが、ここでは何を表現したいのか問われるようになった。吉留さんは、絵を描く上で特にテーマ性を重視していたのだ。生徒たちは「グループ円(えん)」という名称で作品の発表を行うようになった。大野さんの表現もそこで大きく変化していった。
そんなころ大野さんは、住むための家を新たに敷地内に建てることとなった。それに伴い、それまで住んでいた家が空き家となった。この家は300年続いた旧家で、そのまま壊してしまうのは惜しまれた。大野さんはここを人の集まれる場にしたいと思い、画廊としてリノベーションすることにした。
オープニングの展覧会は師匠である吉留さんにお願いした。その後、年に1~2回ずつ企画展を開いている。斎藤・田代夫妻や森田・赤松夫妻、それに吉留夫妻など、近隣の美術家たちがここで展覧会を行ってきた。大野さんの奥さんも絵を描いており、2人ともとてもオープンマインドでお客さんの訪問を心から歓迎してくれる。
この地域はかつて街道筋の宿場町だったそうだ。気軽に旅人を受け入れる素地はそうしたところから来ているのかもしれない。さらに天領地だったところも多く、地域の人々が結束する必要もあまりなかったようだ。今日でも人々はそれぞれ分相応の生活を送り、冠婚葬祭のときも見栄を張ったりはしない。関西出身の大野さんの奥さんには、それが最大の驚きだったという。
何をやっていても特に周囲から干渉されない。かといって必要なときは互いに協力し合う。このような土地では、地域を挙げた大きなイベントは起こしにくいだろう。その代わり、そうした弾力のある人間関係こそが、美術家たちにこの土地の住みやすさを保証している最大の理由だったのではないか。大野さんたちの話を聞きながらそのようなことを考えていた。


 



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小川町も例にもれず、趣きのある古い家が次々と取り壊されている。その土地のことはそこに住んだ人にしかわからない。そして、それは建物の記憶とともに伝えられてゆく。だから家が一軒なくなると、その土地の記憶もまたひとつ消えていく。
伊東孝志さんは、自らのアトリエを使った展覧会で一昨年の「創発」に参加した。そこは小川町にあるカレー工場の跡地だった。昨年の「創発」では、廃校になった小学校の跡地で展示を行った。きれいに保存された校舎の内外に、あたかも昔からそこにあったかのような面持ちで作品が並べられた。そしてそこには、常にゆったりとした時間が流れていた。
そしていよいよ今年、「小川町現代美術散策」と題して町内4か所の古い建物を使った展示を展開させることになった。これまでの経験から伊東さんは、公共の施設ではなく個人所有の建物を使って展示したいと考えるようになっていた。そこで昨年の暮れあたりから、使われなくなった家屋を探すため市内を奔走していたのだ。
第1会場となるのは仲井屋商店が所有する長屋である。ここはなぜか地元で「お助け長屋」と呼ばれる賃貸住宅で、4室のうち空いている1室を使って伊東さんが展示する。第2会場は三共織物株式会社が倉庫として使用している蔵だ。大谷石造りの重厚な建物で、その手前半分を使ってタムラサトルさんが展示する。
第3会場は日本キリスト教団小川教会の旧館。ここは100年以上の歴史を持つ由緒ある教会である。最近、新館ができ、その後は子どもたちの集いの場として使われている。ここでは小林耕平さんが展示する。
そして今回、伊東さんが最も手をかけたのが第4会場の醤油屋の跡地である。柳井嗣雄さんと滝沢徹也さんが展示することになっている。ここはかつて日野醤油店という名で営業しており、裏に工場があって「国光」という商標の醤油を製造販売していた。工場の方は取り壊され、今は駐車場になっている。
家主は、今は大阪に移っていたが、趣旨を話すと快く使用を承諾してくれた。今年の5月に賃貸契約を交わし、それから修復作業が始まった。店を閉じてからしばらく経つため屋内はかなり荒れていたという。壁や柱に貼り付けてあったベニヤを剥がしてみると、黒光りする年季の入った板材が現れ、材質の違いから増築した痕跡も明らかになってきた。醤油屋だった時代を偲ばせる張り紙や写真も見つかった。
近所の奥さんたちはしばしばここに立ち寄り、昔話に花を咲かせるようになった。伊東さんの作業に関心を寄せ、この店の情報集めを手伝ってくれる人も現れた。とりあえず大方の修復が終わった7月の末、建物のある本町1丁目の人たちに声をかけて小さなお披露目会をすることにした。ところが開けてみれば50人を超す大集会となった。彼らはみな、それぞれの思い出を胸に抱えてここにやってきたのだった。
展覧会が始まると彼らは、初めてこの場を訪れる人たちと出会うことになるのかもしれない。しかし彼らの記憶は、それを知らない人たちにとっては別世界のできごとだ。それを伝えるためには、そこで新たな物語が共有される必要がある。それが媒介となって、初めてその記憶を他者へと受け渡していくことができるのだ。
美術家は作品が置かれる場の記憶を探し出し、同時代の視点によってそこに形を与えてゆく。私たちは、そこに出現した意外な造形物によって、その場が持っていた別な一面を垣間見ることになる。言い換えれば、そこがひとつの演劇的な空間になるのである。今回参加する美術家たちは、それぞれの会場でいったいどのような物語を生み出してくれるのだろうか。

 


 

加茂哲さんと孝子さんが自宅アトリエで2人展を行う。飯能に越してきて22年ほどになるが、これまでアトリエを公開したことはなかったそうだ。さらに長い間、共に制作してきたにもかかわらず、夫妻で作品を展示するのは今回が初めてだという。
哲さんは1949年、静岡県に生まれた。美術の道を目指して上京し、東京造形大学で彫刻を専攻した。卒業後、「十指作」(としさく)という美術造形製作所を開業し、景気の高揚に伴って仕事は順調に増えていった。
孝子さんは麻布の生まれ育ちで、武蔵野美術短期大学では工芸を専攻した。ある出会いから哲さんと結ばれ、生家の近くで共に生活を始める。自宅の1階に、東京造形大学出身者を中心とした美術家の共同経営による画廊を開いた。「オーブ」という名で、孝子さんがその運営に携わった。
ここでは作品を制作していることがメンバーの条件だったため、孝子さんも何か発表しなければならなくなった。孝子さんは初めテキスタイルの制作をしていたが、徐々に材料が紙に変わっていった。テキスタイルには、染めや織りといった一連のプロセスが不可欠だが、紙は自らの行為を直接表現としてそこに留められるのが魅力だった。
哲さんの作業場は西所沢にあった。受注した造形物を造りながら、その傍らで自らの制作を行っていた。無数の鉄線を溶接して、有機的な形態を生み出していくという作業だった。完成形を予め決めず、制作の中で生成してくる形態を追い求めていた。
1989年、心機一転のため、家族全員で麻布から飯能へと引っ越した。周辺には西雅秋さんや城戸孝充さんといった同世代の美術家も多く住んでいた。自然に恵まれ、子育てにもよい環境があった。学生や生徒の主体性を重視した教育で知られる「自由の森学園」も近かった。その方針に共鳴し、3人の子どもたちはすべてそこに通わせることにした。
ここには2人分のアトリエが用意されたが、哲さんは生業に追われ思うように制作が進まなくなった。そのため孝子さんは、両方のアトリエを思う存分使うことができた。制作は紙と格闘する方向へと展開し、作品も徐々に巨大化していった。
数年前から孝子さんは、小川町にある和紙体験学習センターでワークショップ指導などをしながら制作するようになった。作品も、紙に形を与えていくやり方から紙の本質を見つめる方向へと変化してきた。昨年は同センターでの展示で「創発」に参加したが、そこでは水を含んで変形していくデリケートな紙の質を見せていた。
一方で哲さんは、5年ほど前、作業場に生えていた大木を近所との関係で切り倒さなければならなくなった。それは、ここを建てたときから共に成長してきた思い入れのある木だった。処分するのも忍びなく、自宅の庭に小屋を作って休みの日ごとにその幹を彫り始めた。
木彫は素材と対話しながらの作業となる。そこにはFRPなどの造形作業からは得られない心の安らぎがあった。哲さんは一刀一刀、年輪に込められた樹木の意思を探りながら掘り出していった。
孝子さんが使わなくなっていたアトリエには、哲さんの作品が1つまた1つと増え始めた。それらは屋外の自然環境と親密な関係を結び始めていた。これを機に哲さんは、作品の発表を再開しようと決意した。そして2009年9月、銀座のコバヤシ画廊で久々の個展が行われた。
かつて神田などにあった画廊には、必ずその片隅に人が集まって語り合える場所があった。そしてそこが、美術を目指す人たちを育てる揺籃となっていた。ところが1990年に入ったころから、人の成熟をゆっくり待っていられる余裕は世の中からなくなった。画廊は作品を売る場となり、美術家もまた生業に時を費やされるようになった。すべての人がわき目も振らずそこを駆け抜けてきたのだ。
今、多くの人が時代の曲がり角に立っていることを感じている。こんなときこそ私たちは、できるだけ人と向き合って話をするべきなのだろう。しかしすでに、画廊にそれを期待することはできない。そこで改めて、その場をいかに創出できるのかが問われている
加茂さんの3人の子はみな家を出て、部屋にもゆとりができた。それならばここで作品を展示して、人々に見に来てもらうことはできないか。作品があって人が寄る。そして何より、そこを話のできる場にしたいと孝子さんは言う。かつて師弟関係を育む場であったアトリエに、今までなかった新たな機能が与えられようとしているのかもしれない。

 




秩父を中心に行われていた田島一彦氏の木版画を通したユニークな授業は、戦後の自由画教育運動の中で全国から注目されていた。 戦後間もなく小鹿野町に生まれた浜田賢治さんもまた、小学生時代からその薫陶を受けた1人であった。
浜田さんはそのまま美術の道へと進み、やがて日本美術会が開設した美術研究所に通うようになる。そこでは、森芳雄氏や高田博厚氏といった日本美術会の会員たちが指導していた。彼らは皆、新たな美術の流れを生み出しつつあった美術家たちで、アトリエは常に熱気に満ちていた。浜田さんはそこで吉井忠氏や寺田政明氏らに師事し、間もなく主体展に出品するようになる。
ここでは人物画や静物画を中心に描いていたが、モチーフとして用いていた器類に関心を持ち出す。特に土器や常滑の器に興味を引かれたという。実は浜田さんは、小学生のころから考古学に親しんでおり、個人的に家の周辺の発掘を行っていた。石器と自然石は一目で区別がつき、どの辺を彫れば土器が出るかも直観的にわかった。そうした下地が活かされ、骨董に対する鑑識眼は一気に高められていった。
29歳にして現在の場所に自らの骨董品店を開く。名前は「アトリエ古都」とした。日本の近代を象徴する「アトリエ」と、歴史ある地域を示す「古都」という言葉を合体させたのだ。浜田さんはその片隅で絵を描き続けていた。この生業は、美術家としての生活を維持するための大きな支えとなった。
浜田さんの骨董への知見は、作品の内容にもさまざまに影響を与えている。たとえばその艶やかな絵肌は、李朝白磁の器に例えられたこともあった。また作品に現れる有機的な曲線は、経年変化が生み出す自然な曲線美を映し出しているようでもある。
具象表現に行き詰まったため主体展を離れ、自由美術展に出品するようになる。このころからいくつかのコンクール展にも出品し受賞するが、団体展の先輩たちの反応は冷ややかだった。自由美術展には都合13年間出品したが、それ以上居続ける必然性は感じられなくなった。そして発表活動の中心は画廊での個展へと移っていく。
ところで戦後、秩父周辺からは独自の個性を発揮した画家が少なからず輩出されている。しかし、そうした作家たちの足跡が系統立てて紹介されることはあまりない。こうした状況の中で浜田さんは、秩父において美術のムーブメントを興すべく画策するようになった。新たな傾向の制作を行っている美術家は、ここにもけっこう住んでいるはずなのだ。
1996から98年にかけて、「点と点」という展覧会が行われることになる。市立図書館の展示室を中心に、秩父市内の数か所の会場を使って行うという企画だった。結果として多くの入場者を導引することができたのだが、ついにこの事業は新たな展開を見ることなく収束していった。
秩父というのは、埼玉の中でも特に人間関係の濃い土地柄である。それは秩父夜祭の運営に顕著に見られる。そのため一定の共通理解を逸すると、なかなか物事が進みにくくなるのだ。ところが近代以降の美術というのは、本来的にそうした秩序を超えていこうとする傾向がある。そのへんが秩父で展覧会を続けることの難しさだったのだろう。
今回は、アトリエ古都を使って近内眞佐子さんとの2人展を行うことになった。近内さんはさいたま市でアートプレイスKという画廊を営んでおり、そちらで浜田さんの展覧会を何度か開いている。画廊と美術教室を運営しながら、さらに作品制作も行っている人だ。
「点と点」のときに比べれば、この展覧会は本当に小さな一投だ。しかし場合によっては、大きな一投より小さな一投が効果を持つこともある。そもそも社会状況が、さまざまな意味で当時と違ってきている。歴史軸と空間軸を文字どおり兼ね備えた「アトリエ古都」。ここを足掛かりとして、秩父固有の伝統を守りながらもそこで完結することなく、同時に外に向けて関係を拡げていけるようなダイナミズムが生まれたらおもしろいと思う。(おわり)



「さいたま美術展<創発>プロジェクト」は、埼玉県内で毎年9月に行われる現代美術の展覧会を紹介する事業だ。作品の展示場所から、美術家はいかに制作のモチベーションを引き出せるのか。実は私は、その解明をこのプロジェクトの腹案として持ってきた。
今年はこのプロジェクトに飯島浩二が参加することとなった。飯島は初め横浜を拠点に活動していたが、2007年、文化庁の在外研修員としてアメリカに渡る。
5年の滞在を終えて帰国し、その後、縁あってさいたま市で制作を行うようになった。飯島はそこで、これまでの経験を自分なりに形にしたいと思うようになる。そのことで今後の展開が見えてくるのではないかと考えたのだ。
こうした伏線の上に行われるのが「HOLLYWOOD JACK」展のシリーズだ。今年の6月から9月にかけて、横浜市、調布市、さいたま市にある3つのギャラリーを使って作品を展示するという企画である。
「JACK」とは、ハイジャックなどと言われるように、戦略を用いてその場を乗っ取ってしまうことだ。このタイトルからは、アメリカの情報戦略の拠点であったハリウッドに対する飯島の複雑な思いが垣間見える。
まず第1回展は、横浜のアトリエKアートスペースで行われた。実はここは飯島が中学時代から通っていた美術研究所で、今は画廊として運営されている。会場には、かつて乗り回していたバイクや壁画制作に使ったスプレー缶、アメリカ滞在中に制作した写真やオブジェなどが所狭しと押し込まれた。そこはさながら、飯島のこれまでの歴史を集約させた記憶の庭となった。
第2回展となったプラザギャラリーは、かつて学んでいた武蔵野美術大学からもさほど遠くない。飯島はここで周囲をガラスで囲まれた展示スペースを選んだ。展示物は前回とほぼ同様で、見る者は歩きながらそれらを体感する。しかし会場を一歩出れば、その全貌を外から見渡すこともできる。この展示を通して混沌とした記憶の集積を相対化し、改めて見つめ直したいという意図が感じられた。
シリーズの最後となるのが今回のノースギャラリーでの展示である。2008年に開設したばかりのさいたま市北区役所の中にあり、飯島にとっては縁もゆかりもない場所だ。艶やかな板張りの床から4mもある純白の壁が立ち上がり、無味無臭の美術展示室といった観がある。
ここでは展示物に加えて、連日、作品の制作を行うと言う。1、2回展を通して飯島は、自らの歩みの回顧と解体、そしてその相対化を試みてきた。それならばこの場においては、いよいよ自分自身にとっての美術の再構築が始まるのではないか。
物質文化が生み出したこの空間で、個人的な思いを引きずった展示物は何の紐帯もなく浮遊させられる。そこに立たされた美術家は、自分しか頼ることのできないリング上の闘士のようだ。飯島はそこで、いったいどのような戦略を持ってこの場を乗っ取ろうとしているのだろう。

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