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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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 2004年、千葉県の干潟町(現・旭市)というところで「幽ART 2004」という展覧会が開かれた。私はその記録集に掲載するための文章を寄せたのだが、事情があってそれが発刊されないことになった。埼玉と関わりないものではあるが、このまま消してしまうのも偲びないので、この文章をここに掲載させていただくことにした。


 私が「幽ART 2004」の会場を訪れたのは、出品者の一人である広田美穂のワークショップが行われた日であった。広田はこの展覧会に「月に帰らなくなった、かぐや姫」と題した作品を出品しており、ワークショップもそれに関連して「かぐや姫への贈り物」というテーマになっていた。
 秋晴れの昼下がり、会場にたどり着くと、大原幽学遺跡史跡公園のあずま家の下では子どもから大人まで7~8人ほどの参加者が熱心にものづくりに励んでいた。参加者たちの手が粘土や木の葉、木の実といった素材をくっつけたりばらしたりするにつれて、その様相は見る見る変化していく。色とりどりの材料がそのものの固有性を失い、渾然一体となってゆく。
 父親とおぼしきひとりの参加者が、「これ使ったら?」などと言って傍らの子どもに蓮の実を差し出した。夢中で作業をしていた子どもは、そこでふと我に返る。閉じられた関係の中で生成していた造形物は、その瞬間、子どもにとって客観的な存在へと転化する。
 父親の視線に気がついた子どもは、自分を納得させるように造形物の生成の過程について説明を始めた。それに対して父親は、独り言のように言葉を返す。そしてその言葉は、子どもにさらなるイメージの展開をもたらす。こうした言葉のやりとりの中で造形物は作り手の専有から離れ、少しずつ公共的な存在となってゆくのだろう。その様子をほほえましく眺めながら、私は美術の根源的な役割について想いをめぐらしていた。

 私はかねてから、美術作品が公表される場で、そこに参加している人たちがいったい何を交換しているのかに関心を持っていた。そこでこの原稿の執筆に先がけ、実行委員の木村裕氏にお願いして、出品者とスタッフの方々に「この催しに関わった人が他者から何を得、また他者に何を与えることができたと考えているか」について質問状を送付してもらった。回答された内容からは、おおよそ次のような美術特有の効用の循環図が浮かび上がってきた。
 まずスタッフとして参加した人から、「鑑賞するだけでなく、作者の方々とも交流すること」が大きな刺激になったという答えがあった。「一般には説明がなければ…理解出来ない」ような現代美術作品も、実際に制作した美術家との交流を通して少しずつ理解を深めることができたのだろう。そしてその成果として、「限りない想像力をかきたてられ…日頃、見過ごしてしまっているもの…すべてがアートのように見え」てきたり、「インスタレーションの一部として…建造物、遺跡、働く人々、水田や鳥たち、切り株の一つまで、ココを構成している要素であったことを改めて感じ」ることもできたに違いない。
 また出品者たちも、「地域の人々や遠方からの来場者との会話が、現実の社会とかかわっているという実感を与え」てくれたと記していた。そして、そうした関わりを通して「現代美術は、日本においてはいまだに多くの人にとって『聞き馴れない言葉』」だが、「『幽ART 2004』は、そうした状況から少しでも前へ踏み出すための小
さな一歩」になったのではないかと評価しているようだ。
 しかし一方で、出品者の中には「私ではなく、作品の置かれた…『場』との交換、関わりを望んで」いる者も多かった。実際に美術家たちは、まず「場所を知」り「人と出会」い「公表する機会」を得ることで「思考」したり「他の作家の作品(からさまざまなことを)…感知」している。こうしたプロセスの中で「自分以外のアーティストのことがよくわか」り、「振り返って自分の作品の成立をも吟味」することができるのだろう。(つづく)

幽ART2004
2004年10月29日(金)~11月3日(水祝)
大原幽学遺跡史跡公園
千葉県旭市長部345-2
電話:0479-68-4933(大原幽学記念館)
http://www.city.asahi.chiba.jp/yugaku/

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 価値は固有ではない。かといって多数の人々で共有すると、それに馴染める人とそうでない人の間で適応力の差ができ、必ず疎外が起こる。複数の人が価値を共有しながら、しかもそこに主従関係を生まないような、黄金律のような意思疎通のしかたはないものか。
 例えば分子モデルを想像してみよう。原子と原子は、普段は遊離しており、それらが手を結び合うことで分子が構成される。原子どうしは決して密着することなく、互いに手を伸ばして結びついているだけだ。そして分子構造が複雑になり、たくさんの原子が手を結び合うほど、そこには安定した分子構造がもたらされる。
 要は極めて単純である。すべての人が、二者間でのみ共有できる価値観を持てばよいのだ。このテクニックこそが、今日の意志疎通の困難さを克服する唯一の手段ではないかと私は考えている。
 1人の人間が、今、向き合っている相手との間で共通の価値観を築く。するとそこには、他者が介入することのできない信頼関係が芽生える。そして次の人とは、また別の共感を通して新たな価値観を築いていく。このようにして人は、個別の価値観によってつながりながら社会を形成していくのである。
 この展覧会では、すべての出品作品に共通する基盤が見当たらないと書いた。それにもかかわらず個々の作者の作品どうしがそれぞれに引き合いを持ち、結果として全体に緩やかな統一感がもたらされていた。全体を見ても何のつながりも見えないのだが、2人ずつ作品を比較したとき、そこには必ず個別の共通性が立ち現れてきた。そこをこそ、私たちは最大限に注視すべきなのではないか。
 そう言えば、この展覧会に関わってくれた人たちもまた、お祭りのように溶け合う一体感を味わう機会はなかった。そんなものは初めから期待していなかったのだと思う。それよりも、それぞれが個々に、自らの意思でこの催しへの関わり方を探してくれていた。そして、もしこの催しを通して新たな出会いが生まれたとしたら、それこそが最大の収穫であったに違いない。
 芸術家というものは、新たな思潮を、理論ではなく直感で感じ取り、将来における人々のあるべき姿を目に見えるようにしてくれる存在である。この展覧会の出品作品が指し示していたのも、まさにそうした新たな人間関係のありようだったのかもしれない。どんなに複雑に見える世界も、すべては1人と1人の出会いから始まる。分岐点はまた合流点でもあったのだ。(おわり)


<展覧会が示唆していたもの>
 「現代美術展<分岐点>」はこのようにたくさんの人々の協力を得て、無事、閉幕することができた。終了後に行われた反省会では、企画者である私とそれぞれの出品者の間で意志疎通が不十分だったのではないかという意見が何人かから出された。その言葉から私は、意志疎通のあり方についていろいろと考える機会を与えられた。
 意志疎通は、人々が共同作業を進めていくうえで欠くことのできない手段である。意思疎通を円滑に行うためには、何をよしとするのかという価値観の擦り合わせが不可欠だ。価値観というのは、地域や文化、そして個人によってもかなり差がある。価値観がずれていたため、お互いにわかっているつもりが、実は何もわかっていなかったということもしばしば起こる。
 歴史的に見ると、前近代と言われる中世期には、個々の価値観の違いというものは人々の間であまり意識されていなかった。共同体における構成員の出入りが少なかったため、自他の区別を持たないままでの意志疎通が可能だったのだ。だから、外から移住した者はまずその集団の価値観に同化する必要があった。その意味で、共同体自体がひとつの価値を有していたと言うこともできる。
 ところが近代に入ると人口移動が頻繁になり、価値観の異なる者どうしの接触が増えたことで、合意形成というプロセスが意志疎通の前提となってきた。そしてその合意を保証したのが、理性的な判断に基づく合理性であった。合理的に物事を考えるためには、まず一貫性を持った自己が形成されなければならない。そして自己意識の確立に伴い自他の区別が明確となり、資源の私有を巡ってしばしば競合が起こるようになった。その結果、合理的集団が非合理な集団を制圧的に支配することで、最終的に最も合理的なシステムを持った国家が世界を統治することとなった。
 このように、これまで人々は合理的で普遍的な価値を善とし、勝者の基準を盾に合意という名の侵略を繰り返してきた。ところが社会がグローバル化するにつれ、普遍化する社会規範と現実の住民意識のズレが破綻を見せ、それがあちこちで露呈してきた。合理性の名のもとに押さえられていた人々が、その抑圧に対して反旗を翻す内戦の勃発である。そこで今日では、異なる価値を受容できる政治システムを構築することで、価値観の個別性を保障すべきではないかと考えられるようになった。
 しかし、そこでひとつ大きな問題が生じた。個別的価値を大事にするほど、人は相手の価値観に共感しなくなる。そして、互いに無関心になったことで孤独化し、そのため本人もまた自分自身の価値観に魅力を感じられなくなってきたのだ。価値というのは、他者と共有することで初めて意味を持つ。それならば、この「個別的価値」という言葉自体にそもそも矛盾が孕まれていたのではないか。(づつく)

<関連イベント>
 当初から、展覧会に併せて関連イベントを行うことを考えていた。開幕時に、地元で演奏活動をしている人たちのアトラクションも検討されたが、初対面の美術家と音楽家がコラボレーションを行うことの難しさを危惧する声があり、それは見送りとなった。間もなく東武動物公園駅周辺で行っている翁さんのプロジェクトの全貌が見えてきたため、関連イベントとしてその経緯を発表してもらうことにした。
 展覧会の初日に行われたオープニング・セレモニーの第一部では、杉戸町に住み始めて感じたことや、商店街に展示することへの町の人の反応について翁さんが語った。それを受けて、栗橋町の斉藤和夫町長から町で文化活動をどのように活用してきたか、教育委員会の柿沼次長からはこの展覧会を通して優れた芸術作品に触れてもらうことへの期待がそれぞれ語られた。
 出品者で定福院副住職でもある小高さんからは民間主導の文化事業のありかたについて、NPO法人シーダーで文化活動の発信を行っている渡辺稔さんからは芸術活動に対する資金援助の必要性について発言をいただいた。
 その後の懇親会では40名ほどの出席者を得て、出品者や協力者を囲んでともに労をねぎらいながら懇談した。出席者の中には、仙台市役所で街づくりを担当している村上道子さんや青森市在住の彫刻家の山口清治さんなど、遠方から駆けつけてくれた人もいた。
 オープニング・セレモニーに加え、会期中にも何か関連事業をやりたいと思っていた。そこへ柿沼さんから、子どもを対象としたワークショップをやってくれないかという申し出があった。日本ではかつてから、新たな文化が導入されるときまず教育を通して広まるのが常であった。おそらく栗橋でも同様の効果が望めるのではないか。私はこの提案を積極的に受け入れることにした。
 柿沼さんは、近くのハクレン館で行われている「くりっ子放課後児童クラブ」という学童保育施設を紹介してくれた。ここには下校後に近所の小学生たちが集まってきて、思い思いに時間を過ごしている。
 児童クラブ指導員の奈良千鶴さんや稲村千加子さんとお話しし、高学年、中学年、低学年と大まかに3つのグループに分け、子どもたちを会場に連れてきてもらうことにした。内容は、出品者の小林さんの提案で、事前に小石を用意させ、接着剤でいくつかつなぎ合わせ、色を塗って動物の形を作ることにした。
 このワークショップは会期中の3日間、それぞれ1時間半ほどかけて行われた。講師には小林さんの他、翁さん、小高さん、野原さん、近藤さん、鈴木さんに日替わりで当たってもらった。また、ワークショップ専属のボランティアとして齋藤真美さんも手伝いに来てくれた。
 初めに展示された作品を鑑賞し、その後、会場の一角に敷かれたビニールシートの上で、小石をくっつけたり色を塗ったりという作業を行った。子どものいる情景は何より人の心を和ませてくれる。緊張感を与えがちな現代美術の展示会場が、彼らの声や動きによって開放感のある雰囲気に変わっていった。この企画は、会場を訪れた人たちにも至極好評であった。(つづく)


 近藤さんからの提案を受け、8月末に絵画作品の出品者を集めて展示方法について話し合いを持つことになった。そこで平面作品に関しては、渡り廊下からワイヤーで吊り、床に錘を置いて固定する、垂木を組んで絵を掛けるなどの方法で展示することが合意された。
 9月12日、小雨の降る中で「現代美術展<分岐点>」の飾り付け作業は行われた。木村さんが現場監督となり、いつものように根本民穂さんが助手で来てくれた。鈴木さんの木枠の組立てが多少難儀したが、作業は比較的スムーズに進んだ。そして午後1時半ごろ、杉戸での飾り付けを終えた翁さんが到着して作品を並べ終えたところで、ぴったり2時の開場となった。
 体育館というのは日常空間にも増して、それぞれの部分に具体的な機能を宿している。その分、見る者の目を作品の中に自然に引き込んではくれない。非常扉や床のライン等、周囲に点在する夾雑物を常に意識しながら作品を鑑賞しなければならない。ここでは観客に、美術館やギャラリーとはまったく違った集中力が求められる。
 しかし一方で、冒頭で述べたように、この会場には別の位相で不思議な一体感がもたらされていると感じられたのも事実だった。すべてに共通する要素はないのだが、作品がそれぞれに一対一関係を保ちながら、その共有部分によって全体を緩やかにつなげていたのである。
 たとえば、入ってすぐのところにある近藤さんの絵は、作者が画面と向き合った時間を留め、その奥にある鈴木さんの絵は作者が生活の中で出会ったできごとを記録していく。いずれも、画面の中に散見される具体的なイメージを拠り所として、制作課程における時間の推移を追うことができる。
 中央の小林さんの石彫は植物と人の姿を融合させ、その背景にある野原さんの絵は原生動物のような形態を様式化させる。そこにはともに、有機的な形態のバリエーションが響き合っていた。
 小高さんの作品の少女は高く伸びる脊柱と向き合って何事かを語り、高津さんの人物が携える物品には極めて個人的な意味が込められているように見える。それらの作品からは、人物とそれ以外のものの対比からさまざまな物語が紡ぎ出される。
 さらに、構成要素を分散させて展示空間に溶け込ませる翁さんと鈴木さん、色彩に象徴性を盛り込む近藤さんと野原さん、動植物を擬人化させる小林さんや高津さんといったように、ひとつの作品から次の作品へと目を移すたびごとに、あたかもしりとり遊びのように新たな関係性が立ち現れてきたのである。(つづく)

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