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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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わが国では中央集権制の徹底により、欧米、日本政府、地方行政という序列が明確に位置づけられてきた。そこでは、常に上を見習いながら自らを正すことが求められ、それを遵守することで比較的短期間に近代化を成し遂げることができた。これは否定しようのない事実だ。
しかし今、すでに欧米から学ぶことはなく、政府も地方を統率する経済力を失っている。それならばこれからは、それぞれの地方が自分自身で考えてやっていくしかないだろう。
美術関係では、越後妻有トリエンナーレや瀬戸内国際芸術祭といった地方発の大型イベントが花盛りだ。これらは地域の特性を活かしながら、それぞれに違った方法論を展開させている。他と同じことをやらなかったからこそうまくいったのだ。やはり自分のことは自分で考えるしかない。
埼玉にはよく特徴がないという。だがそれは誤りだと思う。筆者が見るに、そこには他に類のない県民性や地域性がある。要は、見ているかいないかの違いではないか。そこを徹底的に追求し最大限に利用していかない限り、地域の活性化はありえない。それもまた、そこに住む人々が考えるべきことだ。
シンポジウムの中で、オープン・アトリエに来た人から「ここで何を作っているのか30年間ずっと気になっていた」と言われたという話があった。その人は、その場が放つ空気によほど惹かれていたのだろう。美術は地域の中で決して忘れられてはいない。これまで出会う機会がなかっただけなのだ。
「さいたま美術展〈創発〉プロジェクト」は現代美術を媒介として、人と人の小さな結びつきからグローバルな時代精神を創発させようと目論んでいる。時代精神と言っても別に大それたことではない。ただ、目の前にあるものの価値に気づく感性を取り戻すということだ。そしてその感性こそが、これまでのようなトップダウン方式を改め、ボトムアップ型の社会を構築するための最大の牽引力となるのではないかと夢想している。(おわり)
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明治以降、日本では洋行帰りの美術家が中心となり、首都の東京で文展を基盤に美術界というものを立ち上げた。欧米でやっていることを日本でもできるようにするのが、当時のすべてのリーダーたちの目標だった。そしてそれは、早急に近代化を進めるうえで避けて通れない道だった。
敗戦後は官展が廃止され、多頭化を進めることで美術界の民主化が図られたが、東京が中心であることに変わりなかった。各地で市展や県展などの地方展が開始されたが、中央の団体に所属する美術家がその運営に携わったためその影響力は逆に強まった。こうした序列化の過程で、中央で決められた評価を地方の隅々まで行き渡らせるためのシステムが完璧に整えられたのだ。
一方で、1970年代から活動を開始した現代系の美術家たちは、団体展系とは異なり、発表活動の中心が画廊での個展となった。主な画廊は、団体展と同じく東京などの都市部であったが、そこで評価を得ても彼らが再び地方に戻ることはなく、その後は国際的な場へと羽ばたいていった。1980年代から始まる実体を欠いた経済繁栄は、その傾向をさらに強める結果となった。
その後、時代は大きく変化する。いくつかの理由で団体展系の美術家が中央で評価されにくくなり、そのため地方画壇では指導者の高齢化が進んできた。一方で前述のように、現代系の美術家に対しては、地方での発表場所はあいかわらず閉じられたままだ。こうした中で地方では、美術の空洞化とも言うべき状況が起き始めている。
さらにそれからひと時代を経、現代美術の発表形態も様変わりした。少子化により若い世代の美術家には教職への道が閉ざされつつあり、それに伴って貸画廊が衰退してきた。さらに長く続いた経済状況の低迷により、都市部で個展を行ってもそのコストに見合うだけの対価を得ることが難しくなった。
それならばあえて莫大な経費を要する都市部での発表を控え、その分、自ら住まう地域内で作品を公表することに新たな意義が見出せないものか。地域の美術愛好家もまた、自ら作品を発表することよりも、優れた作品の鑑賞へと関心を移してきている。地域の現代美術家たちを公正に紹介することができれば、美術に対する新たな時代の要請に応えられるのではないか。
特に埼玉には、他の地方にも増して国際的に活動する美術家が多く在住している。彼らは東京都内および海外で作品を発表してきた作家たちだ。しかしながらこれまでは、県内でその存在を知られることがあまりなかった。これだけの文化資源を抱えながら、公立美術館を含む行政は宝の持ち腐れをしてきたのだ。
このプロジェクトの狙いは、一義的には美術家と愛好家を生活の場で出会わせることである。しかしその波及効果は、美術の内部にとどまらない。身近な場所で活動する美術家を紹介することで、住民の間に一種の地縁意識を醸成できるだろう。さらに、地域の美術家への関心が高まることで住民が居住地域への誇りを高め、より質の高い地方自治を行う基盤にもなると思う。
現代美術がもたらすこうした地縁関係は、かつてのように閉塞へと向かうものではなく、国際的視野へと拡大していく方向性を持つ。なぜなら現代美術は、国際性と地域性とを同時に併せ持っているからだ。近い将来、地域社会は国の枠を超え、海外の諸地域と直接、交易を展開させるようになるだろう。そこで現代美術が媒介となることで、無味乾燥な経済交流に加え、人間的な切磋琢磨のある間地域的な文化交流が可能となるに違いない。(つづく)

 



ところで筆者はそれ以前から、さいたま市を拠点として活動していた特定非営利活動法人コンテンポラリーアートジャパンの理事として名を連ねていた。同法人は、現代美術家の篠原有司男氏の支援を目的として、代表の矢崎淳が2006年に設立したものだ。篠原氏はその後、当法人の助力により神奈川県立近代美術館、豊田市美術館等で大規模な展覧会を成功させ、2007年度の毎日芸術賞を受賞することとなる。
コンテンポラリーアートジャパンはその次のステップとして、改めて地元埼玉において現代美術を通した地域の活性化を目指そうということになった。そこで2009年、「創発」を当法人の主催事業として位置づけ、今後展開されるプロジェクト全体を含めて「さいたま美術展〈創発〉プロジェクト」と命名することとした。
2009年、このプロジェクトはいよいよ本格始動することとなる。これまで筆者が作品を見続けてきた信頼できる美術家と画廊に声を掛け、9月にそれぞれの地元で展覧会をしてもらえるよう呼びかけた。正月早々100人ほどに電話しただろうか、その結果、27件の個人とグループが協力を約束してくれた。
本事業の柱は次の4本立てとすることとした。
①県内で行われている現代美術の活動を、年間を通じてホームページで紹介する。
②優れた制作活動を行っている美術家やそのグループに対し、9月に埼玉県内で展覧会を開催してもらえるよう働きかける。
③9月に県内で行われる展覧会マップを作成し、広く配布する。
④11月ごろ、創発参加者および美術関係者を対象として、生活圏で行われる展覧会のあり方について検討するシンポジウムを行う。
この年の目立った展覧会としては、前年に引き続き、所沢駅の操車場を使った「所沢ビエンナーレ」第1回展と東京電機大学鳩山キャンパスの山野を使った「国際野外の彫刻展」がエントリーした。その他、区画整理の行われている空き地や廃校になった学校の体育館、鋳物工場跡のギャラリーやカレー工場跡のアトリエ等、地域の特性を活かした展示があちこちで展開した。
結果として、マップの仕上がりが遅れたり掲載情報の誤りが出てきたりと検討すべき課題は残ったものの、初めての試みとしてはそれなりにやれたのではないかと考えている。それよりも、最後のシンポジウムでの意見交換を通して参加者たちの密かな期待を感じることができ、筆者は強く勇気づけられた。
またちょうどこの年、埼玉県で新たに文化芸術振興基本条例が公布され、それに基づいて次年度から基本計画案の策定に入ることになっていた。おそらくそれとの関連があったのだと思うが、県もこの事業に関心を示してくれ、平成22年度は県文化振興基金による助成が受けられることになった。(つづく)

3月に入り、そろそろ今年の<創発>も始動しなければならない。
今年の初め、「さいたま美術展<創発>プロジェクト」について『ギャラリー』2011 Vol.1に報告文を寄稿した。このプロジェクトのこれまでの変遷を知るのに便利なので、同誌編集長である本多隆彦氏に許可を得てこのホームページに転載させていただくことにした。


2010年11月27日、埼玉県立近代美術館の講堂には50人ほどの出席者が集まり、「9月の創発2010」のシンポジウムが行われた。各参加団体の代表者から、展覧会の実施結果についての報告があり、そこでは近隣住民を呼び込むための工夫や住民と接することで得られるメリット、また観客が長時間会場に滞在することの効果等が熱っぽく語られた。
彼らの話を聞きながら、地元で展覧会を開くにあたり、近隣住民との接触に相当に意を用いていたことが理解できた。そして、画廊で行われる展覧会とはかなり違った客層の人々が訪れ、そこで新鮮な刺激を受けたことの興奮が伝わってきた。
シンポジウムのタイトルは「美術とネットワーク」とし、そこに「開かれた地縁社会を目指して」という副題が添えられた。近代化の過程の中で、人間関係が血縁から地縁、社縁へと広がってきたという見方がある。そして今日、社縁社会が進行し過ぎたために地域の疲弊が起こり、改めて地縁の再生が求められるようになったというのだ。
しかし、そもそも社縁社会は、地縁の持つ閉鎖性を補うものとして浸透してきた経緯がある。だから、地縁をそのまま復活させたのでは問題の解決にならない。地縁を活かしながらも、同時に人間関係を閉塞させないためのネットワーキングの構築が今、注目されているというわけだ。そしてその方法論を体現しているのが、まさに現代美術のシステムではないかという問いかけが筆者にはあった。

埼玉は静か過ぎる、すべてはそこから始まった。
埼玉県立近代美術館に長く勤めた後、筆者は青森、上海と転々とし、2007年、再び埼玉県に戻ってきた。これからは静かに暮らそうと思っていたのだが、横浜トリエンナーレが始まって以来、バンクアートやらザイムやら、何かと遠くの花火が気になりだした。東京に人が集まるのはしかたがない。しかし、東京を挟んで反対側の横浜がなぜにあんなに賑やかなのか。
埼玉にも現代美術系の作家がいないわけではない。いや、神奈川県より多いくらいだ。ところが、彼らはみなここに住んで作品を作るだけで、発表の場は東京都内と決め込んでいる。美術家もまたいわゆる「埼玉都民」なのだ。何とかもっと身近な場所で、つまり生活の場で彼らの作品を見てみたい。そうした思いが湧き上がり、止まらなくなってきた。
静かとは言うものの、わずかながらも県内で行われている現代美術系の展覧会はある。そこで手始めに、それらのリサーチと紹介から始めてみることにした。
2008年、この年の9月に埼玉県内で行われる現代美術系の展覧会をウェブ上で紹介する「創発2008」を立ち上げた。このときは、「国際野外の表現展」や「所沢ビエンナーレ・プレ展」を含む7件の展覧会を取り上げ、事業の成り立ちやその意義をホームページにアップしていった。プロジェクトとも言えないこのプロジェクトは、そこで紹介された人々の反応を見るための実験という意味合いがあった。
実際のところ参加者たちには、このプロジェクトが目指すものについてあまり理解してもらえず、終わった後も積極的な支持の声は聞かれなかった。手伝ってくれたスタッフさえそんな状況だった。しかし美術家たちもまた、都内での発表の機会が確実に減っているという現状を抱えており、発表のためのモチベーションが与られるだけでも決して迷惑なことではないという感触は得られた。(つづく)



 ここから見えてくるのは、美術家と鑑賞者は、作品を提供する側とそれを享受する側といった単純な流通の関係で結ばれているのではないということだ。美術作品を一種の媒介としながらも、お互いが常に予期せぬものを受け取り合っていたのである。だから、当然のことながら彼らにとっては、催しに対して何が貢献できたかではなく、そこで出会って得たものごとが極めて重要な価値を持ってくる。
 そこでは作者も観客もなく、「作品、場所(が)…既存と異なる別世界に」なり、「それは現実を生きる中で、夢を見る楽しみと成り…希望か夢をもたらせてくれる」こととなり、その希望はさらに膨らんで「全人類が未来のデザインプロセスを形成するための第一歩」へとつながってゆく。そして、個々人の期待や思惑を超えたこうした互酬関係の中で、展覧会に関わるすべての人たちが改めて「自分が地域に必要とされていると思」えたり、他の出品者から「信頼されていると感じ」ることができたのだと思われる。
 ところで、この「幽ART 2004」が行われたのは大原幽学遺跡史跡公園という場所であった。大原幽学は、新たな農耕技術の導入や規律ある生活規範の指導を行うことで干潟の地を窮乏から救った江戸期の思想家であり、自治活動の推進者でもあった。
 幽学はこの地に移り住むようになってから、今日の農業協同組合に相当する「先祖株組合」の設立や、水田を平均的な大きさに区分けし直す耕地整理など、さまざまな制度改革に取り組んだ(1)。もちろんそこには村人の生活を向上させようとする献身的な思いがあったことは間違いないが、それ以上に、こうした制度を完成させていくこと自体が幽学にとって自己実現を果たすための大きな目標になっていたのではないかと私には思われてならない。そしてその一方に、これらの制度改革が自分たちの利益となることを理解し、個々の実践の中で活かすことのできる民衆がいたわけである。こうした双方の主体的な接近のしあいにより、干潟周辺の土地は他に例を見ない独自の改革が成し遂げられたのであろう。
 晩年、幽学は、地域における先導的な活動が全体の統制を乱したとして幕府から咎めを受け、最後には自害することとなる。しかし、幽学の功績は今でも干潟の人々に顕彰され、この史跡も地元の人たちによって手厚く保存されている。この展覧会は、こうした幽学の名にあやかり「幽ART」としたという経緯がある。

 思えば「かぐや姫」というのは不思議な物語である。かぐや姫を我がものにしようと多くの人々がしのぎを削った。その対価を支払うため命がけの危険も冒した。しかし誰ひとりとしてそれを成し遂げた者はいなかった。姫は昇天の間際、哀れな翁に不死の薬を残していくが、それとて姫と交換するに足るものではなかった。
 「をのが身は、この国に生まれて侍らばこそつかい給はめ」(2)とかぐや姫は言う。もしこの国に生まれていたならその身を誰かに託すこともできただろう。しかしかぐや姫は、そもそもこの世のものではなかった。帰属先のないものを人は決して交換の対象とすることはできない。
 私は「幽ART 2004」を通して、展覧会というのは交換ではなく授かりの場であったことを確認した。美術というのは、おそらく永遠に誰のものにもなり得ないのだ。そして、干潟の人々が時代を超えて大原幽学から何かを受け取り続けているのも、幽学の存在がどこにも帰属しないものであったからに違いない。
 あの日の親子も、たしかに何も与え合ってはいなかった。ただひたすら、周囲からの授かりものを自己の生成の糧として取り入れていた。そして「かぐや姫への贈り物」は、彼らの意図とはまったく無関係にこのような夢想を私に残していってくれた。(おわり)


(1)『「千葉・東総物語」シリーズ 大原幽学』鈴木映里子、2003年
(2)新井信之『竹取物語の研究本文篇』(図書出版株式会社・1944)所収の新井本の脱文・誤写を古筆断簡・流布本から補った電子テキスト(http://www.asahi-net.or.jp/~tu3s-uehr/take-txt.htm/)より引用。

本稿を執筆するにあたり下記の方々にご協力いただきました。記してお礼申し上げます。
石毛宏一、伊丹裕、金子清美、木村裕、佐久間かおる、鈴木映里子、鈴木志保子、高木美智子、西本剛巳

 

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