時代は遡るが、吉田は1987年、群馬県沼田市内に地域における文化活動の拠点として「アートハウス」を開設した。ここでは展覧会ごとに企画者を設定することで、作者、企画者、鑑賞者といった役割を明示することを心掛けた。そのことで、美術の活動には美術家以外の人々の関わりが不可欠であることをアピールしようとしたのだろう。アートハウスを運営した12年は吉田にとって、特定の人間関係の中で美術の活動をいかに組織化できるか探るための模索期間だったのではないか。
2002年、吉田は東京に居を移す。社会との関わりを意識しつつも、それまでは1点1点の造形物をそれぞれ完結した作品として提示していた。しかし、吉田自身に起きた大きな変化の中でこれまでのそうした方向は一新され、美術を社会のさまざまな事象をつなぐための媒介にしたいと考えるようになったらしい。このとき吉田の中では、美術が機能不全に陥った今日の社会の中で、その位置づけを根本から再構成したいという願望が膨らんでいたに違いない。
この頃から、吉田はしばしば「社会芸術」という言葉を用いるようになる。芸術家には本来、利己的な意味での自由はなかったと吉田は言う。ところが近代以降、極めて自己本位的な営為となり、その結果、芸術は表現者によって自ら消費されるものとなった。だからこそ今、芸術は公共性を持つことができず、社会に流通しなくなったのだと分析する。このように社会から遊離してしまった芸術を、もういちどその構成要素へと引き戻すための方法論として社会芸術は提起されたわけである。
ところで戦後の日本の復興政策は、中央集権制を強化することで進められてきたと言える。しかしその結果、地方で孤立していく高齢者をどうするかが今日の社会問題となってきた。一方で近年、構造不況による求人率の低下により、若年層の就業が年々困難になっている。そこで、高齢化の進む地方に若者を派遣して、老人たちと共同生活を送ることで双方に生きがいを与えようとする事業が展開しつつある。
その中でも特に、美術家を目指す若者が地方で高齢者とともに過ごすというのは、極めて発展的で効果的なやり方だと思う。こうした活動のことを筆者は「福祉アート」と呼んでいる。しかしそこで行われていることは、たとえ造形作業がメインだったとしても、私たちが知っている美術とはかなり趣の異なるものだ。なぜなら福祉アートでは、美術家としての専門性をあまり表に出さないことで地域の人々とつながろうとしているからである。(つづく)