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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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ところで川越では、2000年から市立美術館を使って「川越を描くビエンナーレ」という絵画コンクールが開かれていた。川越の生んだ画家、相原求一朗の遺志を継ぎ、商工会議所が音頭を取って、当時の川越市長であった舟橋功一の肝いりで始められたものだ。全国の絵画愛好家を対象に川越を題材とした作品を描いて応募してもらい、その中から優れたものを買い上げて市内の公共施設などで公開してきた。
同展は2009年まで4回実施されたが、市長の交代に伴い事業名が「川越を描くビエンナーレ」から「小江戸川越トリエンナーレ」へと変更された。また、これまでは絵画だけのコンクールだったが、新たに彫刻部門を併設することになった。彫刻部門では、野外に設置することを想定したマケット作品を募集し、まず市立美術館で入選作品の展示を行う。そしてその中から優秀作を選び、その受賞者が伊佐沼工房を使って本作品を制作する「川越彫刻シンポジウム」を行うという手はずである。
関係者たちは、この事業を行いながら街と彫刻の関わりを考え、彫刻を用いた街づくりを進めていきたいという。具体的には、市立美術館から伊佐沼まで続く道沿いに彫刻を置いていく。市にはそこを「花の道」とする計画があるため、やがては花と彫刻とが一体となった市民のための散策路になるのだろう。そしてさらに将来的には、伊佐沼の公園全体を彫刻の森にしてゆきたいと夢は広がる。

 冒頭で述べたように、1970年代から80年代にかけ全国で「彫刻のある街づくり」構想が展開した。しかし実際には、彫刻によって結果的に街を汚してしまった例も少なくない。巷でささやかれた「彫刻公害」という言葉がそれを示している。川越もまたその先鞭をつけたものの、それはすぐには継続しなかった。歴史の中で川越の人々には、一過性のものを見極める目が培われており、それがその動きを無意識の内に押し止めていたのかもしれない。
戦後続いてきた経済成長が終わり、作っては壊しを繰り返せる時代ではすでになくなっている。これからは、いかに持続可能な社会を作るかが最重要課題なのだ。そのためには、ひとつの投げかけに対する反応を待ち、それを受けて、では次にどんな手を打つか考えることのできる精神的余裕が不可欠だろう。時間をかけて真に住みやすい街を作っていこうとする川越の「彫刻のある街づくり」構想は、今、始まったばかりだ。(おわり)

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時代は遡り1968年のことである。川越の外れの伊佐沼のほとりに卸業者のための卸売団地が開設され、その運営母体として川越卸売商業協同組合が結成された。最初は26社の入所だったが、規制緩和や情報化、円高等の影響で流通産業が拡大し、1988年には土地を拡張して49社を擁する大所帯となる。ところが、間もなく流通機構の改編により卸部門と小売り部門の統合が進み、単独の卸売業者の数は減少していった。
そんな中で1995年、同組合は設立後四半世紀経たことを機に名称を「(協)川越バンテアン」と変え、組合活動の心機一転を図ることにした。フランス語で21を意味する「バンテアン」という言葉は、企業としての社会責任を果たすことを目指す、文字通り21世紀型の新たな協同組合づくりへの意気込みを示していた。
さらに時が経ち、川越バンテアンでは、設立40周年に向けて新たな事業の立ち上げが検討されていた。このとき齊藤と三上はとうに青年会議所を卒業し、特に齊藤は川越商工会議所会頭および川越バンテアン理事長という川越の今後を担う立場になっていた。三上とともに事業案を練りながら、齊藤は、川越をさらに充実した街とするためには文化力の向上が不可欠だと考えるようになった。そのとき2人の心に、彫刻による街づくりを目指した30数年前の思いが熱く甦えっていたことは想像に難くない。
齊藤に限らず、川越バンテアンには川越商工会議所の会員を兼ねている者が数多い。そこで商工会議所との機能分担も必要となる。商工会議所は街に密着しているため、利益を地域に還元することで事業実績も必然的に伸びてくる。そのため、そこで行う地域貢献活動は即効性のあるものに向きやすい。
一方で、では流通を担う卸商組合にはいったい何ができるのか。営業実績に直接結びつかない分、却って長期的な展望に立った事業が考えられるのではないか。そのためには、さまざまな文化体験を促し新たな川越を創造するための拠点づくりが有効だろう。そしてそれならば、芸術家支援と芸術愛好家層の拡大を図るための新たな施設を建設しようではないかという結論に達したのだった。
いよいよ「川越バンテアン創立40周年事業実行委員会」が立ち上がり、常務理事だった小谷野和博(現理事長)が実行委員長に着任した。彫刻に焦点を当てた事業を行っていくことも川越バンテアンで承認された。彫刻家が作品を制作して人々と交流し、できれば産地直売も行えるような場所にしたい。そして市民との信頼関係を深めるため、できるだけ決まった作家に使ってもらおうというのだ。公共的な事業として不特定多数の美術家を紹介することはよくあるが、このように特定の彫刻家を継続的に応援していこうというプロジェクトは日本ではあまり例がなかった。
実行委員たちは、ここで制作を行う彫刻家を探し始めた。維持費はすべて工房側が負担し、電気代だけを美術家が支払うという条件だ。この展開もまた35年前を思い出させる。当時と異なるのは、今回相談を持ちかけたのが、あのとき川越に呼ばれてきた田中であったということだ。田中はさっそく委員会の要望に応えられるような彫刻家に声をかけ、田中に加えて岩間弘、奥野誠、平井一嘉の4人がこの工房に入所することとなった。
2010年3月31日、新たに整備された「伊佐沼冒険の森」の一角に「伊佐沼工房」がオープンした。市長も出席して、華々しいセレモニーが開かれた。ここはNPO法人として運営されることになり、齊藤が初代理事長に就任した。川越バンテアンに加え、商工会議所や観光協会からも多くのメンバーが参加した。そしてその8月、大任を終えた齊藤が理事長を引退し、工房の運営は新たに理事長となった小谷野の手に引き継がれた。(つづく)


1970年代から80年代にかけ、市街地に野外彫刻作品を設置することで、地域住民の生活の質を向上させようという動きが全国的に広まった。それらの多くは、自治体が策定した計画に沿って、短期間にたくさんの作品を置くことを目指した。そこでは、そこに住んでいない美術の研究者が作者を選考し、その土地のことを知らない彫刻家が作品を制作していった。その結果、誰のものかもわからぬ作品が次々と現れ、住民の知らぬうちに街の姿が変貌していったのである。
囲碁や将棋でも、一手打ったら相手の返し手を待って次の手を考えるものだ。そうしないとゲームは成り立たない。ところがこれまでの公共事業は、住民の反応を見ないまま次の手を打ち続けてきたように思う。だからこそ住民は、地域づくりに対してこれほどまでに無関心になってしまったのではないか。

1970年代に入り全国組織である青年会議所では、単に営業利益を求めるだけでなく、地域づくりのために貢献しようという目標が掲げられるようになった。そうした目標のもとに、支部ごとにさまざまな試みが行われるようになる。当時は、山口県の宇部市野外彫刻展や兵庫県神戸市の須磨離宮公園現代彫刻展が、彫刻を用いた新たな街づくり事業として注目されていた。それらを手本として、東京の八王子市では青年会議所が中心となり1976年から「八王子彫刻シンポジウム」が始められた。
そんな中、川越市でもまた青年会議所が主体となって野外彫刻を使った祭典をやろうということになった。これを仕掛けたのは、当時の川越青年会議所理事長の齊藤英雄と実行委員長の三上泰弘だった。齊藤は電子機器類の流通卸を専門とする(株)サンテックスという会社を経営しており、三上は祖父の代から続く(株)三上工務所の経営者だった。
齊藤と三上は、川越出身の彫刻家の橋本次郎に協力を求め、さっそく彫刻家の人選に入った。充分な予算もなかったため、6人の若手作家に参加を依頼することとなった。会場には、再開発のため空き地となっていた川越駅西口広場が当てられた。1977年、このようにして「川越野外彫刻シンポジウム」は華々しく幕を開けるが、その後、この事業が継続して行われることはなかった。
ところで、同シンポジウムの出品者のひとりに、東京藝術大学を卒業したばかりの田中毅がいた。田中は、シンポジウム終了後も近所に家を借りてこの土地に住み着くようになった。狭い場所で制作を続けている田中の姿を見かね、三上は会社の敷地内の作業場を提供することにした。以降、三上と田中は家族ぐるみの付き合いを続けるようになる。(つづく)


少し間が開き、1995年から山梨県の清里高原にある大泉清里スキー場で「キッツアートウォッチング―自然の中の現代美術館」を開始した。富士見スキー場以上に人手の加わっていない草原の中で、自然の力と存在感はあまりに大きかった。ここでの制作を通して美術家たちは、作品を自立させるのではなく、作品の中に自然を取り込んでいくことの必要性を学んでいった。
ところで本田さんは、1990年ごろから上尾市にある「黒須植物園」の一角を使って作品を制作していた。ここは昭和初期に開業した造園業者の植栽地で、当時はこうした場所のことを一般に「植物園」と呼んでいたらしい。
車でここに通う道すがら、いつも気になる喫茶店があった。古い自宅を改装した「ブラッドベリ」という店で、小さなギャラリーも併設していた。ある日、店に入ってみると、経営者の齋藤文志郎さんは武蔵野美術大学出身で、地域の文化活動にも積極的に取り組んでいることがわかった。ここに出入りするうち齋藤さんとの間で、黒須植物園を使って野外展をやったらどうかという話が持ち上がった。
植物園の持ち主で造園家でもある黒須達夫さんは、すぐにその話に乗ってきた。美術大学こそ出ていないが、実は黒須さんも清里高原での展覧会のときから出品者として参加しており、自然と対話しながら制作を行うことの重要性を充分に理解していたのだった。
この展覧会は今年で10回目となる。出品者は毎回10~20名ほどだ。出品者の選定に当たっては、参加希望者からプランを提出してもらい、それが実現できるかどうか話合いながら検討しているという。また出品者が講師となり、一般の人に向けたワークショップも行っている。作者と触れ合うことで、作品への理解をさらに深めてもらおうという配慮だ。
本田さんは、園内に置かれた美術作品とそこに自生する樹木を同時に見てほしいと言う。美術鑑賞と環境教育を融合させることで、美術作品と自然の造形を等価に観られる目を養えると考えているからだ。人類は常に自然の中から新たなものを発見してきた。美術もまたその歴史の中で、造形の本質を自然から授かってきたのである。(おわり)


2000年、黒須植物園を会場に「ボタニカル・ミュージアム」展が開幕した。樹木が立ち並ぶ合間合間に、あるものは隠れるように、またあるものは存在を誇示するように作品が設置された。観客は配布されたイラストマップを手に、どれが作品でどれが庭石でどれが植栽用具なのか慎重に見分けながら会場を周っていくという、体験型の展覧会だった。
この展覧会を企画したのは本田晴彦さんである。本田さんは、多摩美術大学の大学院在学中から吉田克朗氏の手伝いをしていたという。吉田氏は1960年代から現代美術界で注目されていた「もの派」の美術家の1人である。その作品制作や展示現場に立ち会いながら、本田さんは美術家が活動を行っていく上での基本的な姿勢を多く学んでいった。
1980年からは、神田にあった真木画廊や田村画廊などで作品の発表を行うようになった。当時の神田界隈は、1970年代から発表を続けている美術家と新たに発表活動を開始した美術家とが互いに議論を戦わせながら、美術の新たな方向性を模索していた。こうした中で本田さんは、これからの展覧会のあり方について自分自身の考え方を確立させなければならない状況に追い込まれていった。
その問題意識から、神奈川県民ホールギャラリーで開始されたグループ展の企画メンバーに加わることとなる。同ホールが主催しながらもその運営を美術家のグループに任せるという、画期的な展覧会だった。本田さんは1981年に行われた「様・式」や1983年の「回」、1984年の「ひとりあるきの箱」などに関わった。そして、これらの運営を経験しながらある確信を得るようになった。
美術家の間では1960年代から、画廊や美術館といった美術専門の展示施設以外の場所で活動を展開させるべきだという考え方が根強くあった。いわゆる「オフ・ミュージアム」構想である。当時、新たな美術の牽引者として美術評論家や美術館学芸員などが注目されていたが、日本の美術界はあくまでも美術家が責任を持ってリードしなければならないと考えたのだ。こうした方向性のもとに1980年代に入ると、都市から離れた場所で美術家主導による郊外型の美術展が頻繁に行われるようになった。
そんな流れの中で、本田さんは1988年、山梨県の富士見町で「造形的生態学―自然のなかの彫刻展」を開催した。長野や山梨で無農薬農法を実践していたグループと前々から交流があり、彼らが行うサマー・フェスティバルと並行して、町営の富士見パノラマスキー場で展覧会をやることになったのだ。ここに参加した美術家たちは、電気も水も通っていない広大な斜面の上で、それぞれに試行錯誤しながら作品を組み上げることとなった。
ここは夏休み中、親子連れの観光客が多く訪れる場所だ。そこで、子どもたちにどう見てもらうかについても工夫を施した。どんな素材で作られているか作品ごとに記入していくワークシートを配布して、全問正解者に景品を贈呈するという趣向だった。美術家主導の展覧会の中でも、このように観覧者への細かなサービスを意識したものまだあまりなかった。(つづく)


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