現在の、加藤の創作の基盤となっているのは裸婦像である。女性の身体の輪郭線には、人を引きつける普遍的な魅力がある。新たな形を再生させる力がある。事実、生命の原点としてのエロスは、人類の歴史の中で繰り返し崇拝の対象とされてきたではないか。
加藤はかつて公募展の先輩から、目に見える形を作品に活かすことの重要さを指摘されたことがあった。それが裸婦スケッチを描き始めるきっかけだった。加藤は今でも裸婦スケッチを欠かさない。ポーズする裸婦を見ると、無意識のうちに手が動きだす。
このとき、加藤の目から入る情報は、大脳を経ることなく直接手に伝えられているのだろう。そこには、相手の動きに即座に応じる、スポーツ選手のような鍛えられた身のこなしがある。作り出すのではなく、映し出される生命の線。加藤の手には、ものを反射的に生命の形に変える力が備わっている。
加藤は、世阿弥の能や道元の思想といった、中世日本の美意識に傾倒していると言う。ものを見ながら描けば、絵がものに似てくる。ものを見なければ観念が勝る。ものと作品の間にある観念を消すことで、そこに自らの存在がネガティブに浮かび上がってくる。描いているのは自分ではなく、描くことで自分自身が作られているのだ。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」(*)
仏道の修行とは自己を修行すること。自己を修行するというのは自己を忘れること。そして自己を忘れることは、自然の法によって自己の存在が証されることである。そして、自己の身心も他己(自分の中にある他者)の身心も、実は自分のものでなかったことに気づくのだ、と道元は説く。ここに、加藤の営みと通ずる自己発見の道筋がある。
「あなた」の作品ではない「私」の作品。それは過去の名作から学ぶことはできないし、他の美術家も教えてはくれない。何かから得ようとしたとたん「私」のものでなくなってしまうからだ。それならばその探求は、自らの身ひとつで始めるほかないのだろう。
加藤孝一は今日も一人で紙と戦っている。それは自己を捨て、自然の法則によって創られる自分自身を探す修行でもある。このプロセスを経ない限り、真実の自己と出会うことは永遠にあり得ない。「歳をとるにつれ紙への対抗意識が強まってきました」と語る加藤の目には、子どものような笑みが溢れていた。(おわり)
*『道元禅師全集』(春秋社)第1巻「正法眼蔵1」、51頁
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