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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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「伊東孝志-委ねる-」ART214、9月12日(土)~24日(木)

 小川町に住む伊東孝志さんは、作品が制作できる場所を探していた。町を歩いているとたまたま「貸倉庫あり」という看板を目にし、さっそく土地の所有者に会ってみた。言葉に臆しながらアトリエとして使いたいことを申し出ると、意外にも快く「協力しましょう」という答えが返ってきた。
 このアトリエはかつてカレー工場だった場所だ。何かの目的で使われていた空間には独特の雰囲気がある。その空間の投げかけに応えてみたいと思った。まず手前にある小さな倉庫を借りた。次いで大きな建物が空いたので、そちらに移った。さらにその奥の、かなり傷んだ倉庫も借りて修繕した。
 ここでオープン・アトリエを始めたのは2007年のことだった。最初に行ったのは自分の個展だった。2回目は「とまどう」というタイトルのグループ展、3回目は予備校時代に教えていた美大生たちの展示だった。ここまでわざわざ見にくる人は、否が応でも滞在時間が長くなり、展示物もゆっくりと見ることになる。そうすれば必然的に会話も増す。
 展覧会には町内の人たちもよく訪れる。彼らは美術関係者とまったく違った視点で作品を見ていく。そして、自分自身の経験の中から思い思いに作品の印象を引き出していく。そこで意外な質問を浴びせられ、考え込んでしまうこともしばしばだ。
 思いを述べ合うことで刺激の交換を行い、互いの関係がリニューアルされる。空間を媒介とした人間どうしの出会いによって、それぞれの心の淵に埋もれた記憶が蘇える。さらにそこから、次の制作の構想がもたらされることもある。「触れたな」と思うのはまさにそんなときだ。
 伊東さんは1980年代の初め、個展を中心に発表活動を開始した。いくつかの画廊から個展の開催を依頼されるようになるが、やがてその制作は彼らの期待に応えるためのものとなっていた。自分で考えて制作し続けられるだけの蓄積が、まだ自分にはなかったのだ。
 間もなく制作者としての自分の姿が見えなくなり、1990年代、ついに発表を中断せざるを得なくなる。そうすると今度は、その世界で活躍する同世代の美術家たちの姿が無性に気になり始めた。それは、自分が作品を制作する目的を見失っていたことの証左だった。
 そのころ伊東さんは小川町に引っ越してきた。この街に馴染んでいくうち、美術展示室以外の場所に作品を置いてみたいという思いが募っていった。それは、もういちど美術と向き合うために避けて通れない道だった。
 制作とは、現実の世界と折り合いをつけるための営みだと伊東さんは言う。制作を行うことで、自分の興味がどこまで続くか試されるのだ。退屈を感じるようになったら、それ以上制作は続けられない。「作品」は妄想の産物に過ぎないが、現実に根ざした「制作」は信じるに値する。
 ここで4回目となる9月の展覧会は、再び伊東さん自身の個展だ。今はアトリエのA棟で地面を掘り、その土をB棟に盛り上げていく作業を行っている。また、B棟の盛り土の傍らにはキャンバスが立てられ、そこに時折、油絵でドローイングを行う。さらに、AB両棟でビデオ映像を流す予定である。
 テーマは「委ねる」とした。世の中には、暗い世界と開けた世界がある。しかしそのいずれも、一方だけでは成立しない。その2つの世界観をここで展開させたいという。しかしこのプランも、最終的にどうなるかはわからない。なぜなら、退屈を感じたところで伊東さんの制作はあえなく変更されるからである。展覧会が始まったとき、そこは何もない最初の状態に戻っているかもしれないのだ。

(090714取材)

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■ 分岐点

「分岐点」いきいき活動センターしずか館、9月12日(土)~18日(金)

 栗橋町で行われる「分岐点」について、事務局長の木村由美子さんに話を聞いた。
 2000年、現代美術に関わる人たちにより「地美懇」(地域の美術懇話会)が立ち上げられた。昨年、地美懇は解散し、新たに「チビジ」(地域の美術実践会)が発足した。地美懇は地域と美術について考えることが目的だったが、チビジはそれまで話されてきたことを実践するための会であった。
 埼玉県内で行われる展覧会を紹介する「さいたま美術展<創発>プロジェクト」をこのチビジが行うことになった。ここに参加する展覧会を県内の美術関係者に募ったが、県東北部には参加団体が現れなかった。そこで隣町の鷲宮に在住する松永(筆者)が、この地域で展覧会を開くことにした。昨年の11月か12月ごろだった。
 年が明け、「埼葛現代美術展」という仮称のもとに大まかな内容が決まった。その事務局を、栗橋に住む木村さんが受け持つこととなった。2月に出品依頼を兼ねた最初のミーティングを行った。そして最終的に、埼葛地域周辺に在住する立体作家3名と平面作家4名による現代美術展とすることになった。そして間もなく、正式タイトルが「分岐点」と決まった。
 会場となる「いきいき活動センターしずか館」は松永が探してきた。少子化によって児童数が減り、10年ほど前にこの周辺の小学校が統合されて2つの校舎が使われなくなった。それがしずか館、ハクレン館と名づけられ、現在はスポーツクラブやサークル活動などで町民に使われている。
 「分岐点」はしずか館の体育館だけを使って行われる。ここは駅から極めて近く、学校として使われていたという特徴もある。校舎の方は地元の人が使っており、また上階は耐震強度の問題があって使えない。また準備期間が短かったため、会場を拡げると内容が散漫になるという危惧もあった。
 木村さんは、小さい頃から美術が好きだったそうだ。しかし、美術は印象派で終わったと漠然と考えていた。ところがあるとき、県立近代美術館で現代美術というものを目にし、印象派の後にも美術があることを知った。その後、美術館のガイド・ボランティアに参加するようになり、そこでナマの現代美術作家と会ってさらに強い刺激を受けた。それがきっかけで、松永が主宰する地美懇にも参加することとなる。
 美術家団体展系の作家は、これまでも地域でそれなりに知られていた。近代美術の流れを汲んでいるため、作品もわかりやすいものが多かった。しかし現代美術家のことについては、地元ではほとんど知られていない。作者たちもまた東京や国外に目が向いており、地元を振り返ることはあまりなかった。木村さんは、このような美術があることをぜひ地域の人々に知ってほしいと思った。
 現代美術を見ることでものの見方が変わると木村さんはいう。作者の話を聞いて作品を見る。そうすると表現の筋道が見えてくる。作品の鑑賞は一方向的だが、作者の話を聞くことで双方向的となり、イメージが輻輳的に広がっていくのだ。
 現在は、マスメディアへの広報のしかたや平面作品の展示のしかたについて検討している最中だ。自分で何かを生み出せる美術家の存在は、木村さんにとって憧れ以外の何物でもない。その魅力をより多くの人たちに伝えたい。そのためにこれまで、そしてこれからも、展覧会の裏方として美術家と観客の間に立ち続けるのだと思う。

(090810取材)


「あんさんぶる」アートギャラリーこはく、9月5日(土)~19日(土)
「恒星展」アートギャラリーこはく、9月20日(日)~30日(水)

 関根公子さんは2003年、思い立って、春日部市にアートギャラリーこはくをオープンした。開廊について何か調べたわけでもなく、ある日、突然、画廊を開きたいと思ったのだそうだ。場所は東武野田線豊春駅のすぐそばだった。
 関根さんは美術に興味を持っていたものの、音楽方面に進んでしまったため美術を専門的に学ぶ機会はなかった。その後も美術館によく行ったが、好んで見たのは評価の定まった美術家の作品ばかりだった。やがて結婚し、子どもも手を離れ、学校で音楽を教えるようになる。しかし組織に属するのではなく、何か自分でやれる仕事がしたいと思うようになった。
 画廊のオープニングは、彫刻家の梅原正夫さんの個展だった。このとき、まだ次の展覧会さえ決まっていなかった。たまたま同じ学校で美術を教えていた画家の小林眞治さんに、急いで次の展覧会を依頼した。抽象画に興味を持ったことはそれまでほとんどなかったのだが、自分の画廊に飾られた小林さんの作品を見て「おもしろい」と思った。
 画廊を開いて3年目、それまで使っていた春日部の会場の契約更新ができなくなった。ちょうど軌道に乗ってきた時期であった。そんなとき、さいたま市の大和田駅近くに、自分の作品を飾るために画廊を開いた人がいることを知った。そこがほとんど使われてないことを聞き、2007年、関根さんはそこを借り受けて再スタートを切ることになる。
 さて、この9月にはまず「あんさんぶる」展が行われるが、代表の田中正弘さんとは、県立近代美術館で「接点」という展覧会を見に行き知り合った。この展覧会との出会いは、関根さんにとって先端的な美術表現に関心を持つうえで大きな影響があった。こうしたさまざまな美術家との交流を通して、関根さんは美術への関心の幅を拡げてきたのだろう。
 9月の後半には恒星さんの展覧会が行われる。彼の作品も県立美術館で始めて知った。絵画、版画、インスタレーションと表現の幅も広いが、さらにパンク・ミュージックをやる元気のよいアーティストである。そのパワーに圧倒されながらも、関根さんはその戸惑いを楽しんでいるように見える。
 関根さんはこれからもっと地域に溶け込み、この場所を人々の出会いの場にしたいと願っている。画廊のウィンドウには、いつも自分で作ったアクセサリーを並べている。そのことで、美術の予備知識のない人にもこの画廊に入ってきてもらいたいからだ。
 自分の好みは美術家によって作られてきた。美術をやる人たちの、人間としての奥深さに惹かれたのだと思う。これからもこの画廊は、はっきりした方向性を持つことはないかもしれない。むしろ、ここに関わった人々によって作られていくような画廊にしてゆきたいと、関根さんは自らの生き方にこの画廊の姿を重ね合わせる。

(090715取材)


「ふたりの女神-それぞれのmuse-」KAWAGUCHI ART FACTORY、9月5日(土)~27日(日)

 重工業から情報産業へという政策転換の中で、戦後、まもなく創業した日本金属鋳造工業株式会社が鋳造部門を閉鎖したのは1979年のことだった。その後、金子良治さんが会社を受け継ぎ貸し工場に業態を変えて運営を続ける中で、1984年から美術家がこの場所をアトリエとして使い始めるようになる。
 まず鷹尾俊一さんが制作を始め、そのつながりで10名ほどの彫刻家が入居。現在も制作を続ける坂井公明さんと和田政幸さんもこのころからのメンバーだ。ところが、その後の景気向上とともに美術造形物の制作依頼が増え、ここで活動する美術家たちも収入を求めてその作業に従事するようになる。そして中には、そちらを本業とする者も現れ始めた。
 金子さんはそうした状況に強い違和感を持った。美術というのは何かの役に立つものではなく、それ自体で成立するべきではないか。美術本来の姿を守るため、ここを純粋な作品制作の場として確保したいと思うようになった。しかし間もなくバブルは弾け、美術家たちは逆に生業を持つことさえ難しくなってきた。
 2002年になり、高野浩子さんや川上香織さんといった若い世代の美術家たちがこのアトリエに住み着くようになる。美術を目指す若者にとって、住居とアトリエを別々に持つことさえ難しくなっていたのだ。金子さんは格安の家賃で彼女たちを受け入れることにした。
 まず、川上さんが住み始めたことでこのスペースに変化が起きた。彼女の強い希望で、8月に川口市内で行われる「たたら祭り」に合わせ、在所の造形作家の展覧会を行おうということになったのだ。金子さんがちょうど、通りに面した空き店舗をギャラリーに改装しようと考えていたときのことだった。
 展覧会の会期に合わせ急いでギャラリーを完成させ、さらに空いていた4つの工場部分も展示会場として公開した。こうして、それまで制作の拠点として稼動していたこの空間は、「KAWAGUCHI ART FACTORY」として公に向けて発信を始めることとなる。
 ちょうどこのころ川口では、市内在住の漫画家である田代しんたろうさんがポータルサイト「eぎゃらりー川口」を開設し、市内で行われる美術イベントをネット配信し始めていた。そのことで、美術関連施設どうしの連携が頻繁に行われるようになった。
 金子さんは2003年、開発好明さんが中心になって全国展開していた「サンキュー・アートの日」に、川口では先頭切って参加する。さらにその翌年には、川口市内で初の大がかりな現代美術イベントとなる「Between ECO & EGO エコとエゴのはざまで」展が開かれることになり、そのメイン会場として場所を提供することになった。
 現在、KAWAGUCHI ART FACTORYは、年2回のペースで企画展を行っている。今年の9月には、ここで制作している高野浩子さんと義村京子さんの2人展が行われる予定だ。それぞれ日本画とテラコッタの作家だが、いずれも女性像をテーマとしているためタイトルを「ふたりの女神」とした。
 現在、7~8人のアーティストがこのアトリエを使っている。今日、アートが街おこしの道具としてしばしば利用
されるようになったが、アートを何かに役立てるより、まずアーティストがいるということが重要なのではないか。彼らができるだけ長く活動を続けられるようこの場所を維持することが自分の役目だと、金子さんは控えめに語った。

090716取材)


「太田敦子版画展」柳沢画廊、9月5日(土)~19日(土)

 深明堂という、旧中山道沿いの印鑑店のビルの上に柳沢画廊はある。以前は印鑑店だけだったが、道路の拡張工事に伴い、店舗を3階建てのビルに建て替えることになった。父とともにこの店を営んでいた柳沢敏明さんは、ビルの2階と3階を使って画廊を始めることにした。1984年のことだった。
 柳沢さんは以前から趣味でよく画廊を回っており、気に入った版画を見つけては個人的にコレクションしていた。埼玉県内にも何件か画廊はあったが、当時はどこも貸し画廊ばかりだった。柳沢さんは、どうせやるなら自分で見たい作品を展示する企画画廊にしたいと考えた。
 当初は年に5、6回の企画展を開き、あとは自分の持っている作品を交互に飾っていた。3年目ぐらいからほぼ通年、企画展だけでスケジュールが埋まるようになった。そしてその頃から、この画廊で展覧会をやる作家も固定してきた。
 経済状況は上向きでよい時代だった。一時は、全国のコレクターを相手に版画の通販などもやっていた。ところが、1990年代も後半になると美術品の流通は激減し、現在は印鑑店での収益を画廊の運営費に回しながら維持するようになっている。
 こうした時代になり、柳沢さんは改めて、自分は版画が好きなのだということを実感していると言う。版画の中でも、特に物質感の強く現れた作品に引かれるらしい。だから銅版画や木版画の展示が必然的に多くなる。版画に引かれるのは印鑑を製作していることと関係あるかもしれないと、自らを省みる。愛好家にとって、その作品が売れるかどうかは二の次の問題なのだ。
 9月には、太田敦子さんの銅版画展が行われる。太田さんはこの画廊で初めての発表となる。たまたま訪ねてきて空間に興味を持った太田さんが、この画廊で展示してみたいと自ら申し出たそうだ。一方で柳沢さんも、銅版の腐食からイメージを導き出す太田さんの独自の表現に魅力を感じた。
 今後は、今までやっていない若手作家の作品も紹介してゆきたいと柳沢さんは考えている。好きな作品を展示するのが基本だが、同じように、美術家にもこの画廊に興味を持ってほしい。互いの信頼があるからこそ、双方の役割は活かされるのだ。四半世紀の年月を経て、この画廊はすでに柳沢さんの存在の一部となっている。

(090710取材)

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