美術評論の中村英樹さんは、アートというのは作品そのものではなく、作品と見る者の間に起こるできごとだと言っていた。言いたいことはよくわかるのだが、しかしそれを言ったら、極論として複製品でもよいことになってしまう。やはり美術というのは、作者の行為が造形の中に実体として留まっていることが重要なのだと思う。
スウェーデンから来たGunnel Pettersson さんは、スウェーデンで行われた美術家と病院による共同プロジェクトのことを紹介していた。病院の中にどのような作品を置き、またどのようなワークショップを行うのか、美術家と病院スタッフがディスカションしながら実践しているそうだ。参考になる例ではあったが、ただもしそのようにやるのなら、やはり美術家よりデザイナーの方が向いているのではないかという懸念も残った。
病院に限らず、公共的な室内空間に現代美術作品が置かれる機会は、おそらく日本でもこれから増えてくると思う。しかし、そもそも美術家というのは、人と相談しながら作品を作るのはあまり得意でない。建築家が設計する洗練された空間ではなく、デザイナーが作った流麗な照明や家具でもない。美術作品でなければ伝えられないものとはいったい何なのだろう。
中村さんのレクチャーのテーマは、「自己救済を共にするアート」だった。人間は創造する生き物である。しかしその営みのほとんどが共同体にとって有益であるのに対し、美術だけは特殊な場合を除いてあまりみんなの役に立たない。つまり美術作品の制作というのは、他人のためではなく、自分自身の精神の欠損を補うために作者が止む無く行っている営みなのだと言う。自らの救済というその目的の特殊性こそが、作品の孤高さや強靭さとなって我々の心を捕えるのである。
美術家は自分のために創造し、自らを生かしている。だからこそ、場合によっては誰に見てもらえなくても作品を作り続ける。そしてそれを目にした我々は、そのプロセスを反芻しながら自らの内に生きる力を再生させている。それらはいずれも個々に完結した営みであり、両者の間に何の直接的な関係もない。
医療の最終的な目的は、病気を治すことではなく、自らの治癒力を高めることだと中山さんは言っていた。身体はもともと自ら回復する力を秘めているが、それは同時に精神の自己回復力によって支えられている。ヒーリングのための音楽や照明は、疲れた心を一時的に和らげてくれるだろう。しかし自己回復力までは高めることができない。それができるのは、美術家が自らの欠損と向き合い克服してきた精神の営みを、闘病者がその作品の中に見出したときなのではないか。(おわり)
「病院とアート」展
出品作家:丹下尤子、高浜均、細野稔人、南照子、奥野由利、長澤晋一、森竹巳、黒木葉子、今井伸治、野口真理、野見山由美子、田島環、小林晶美、塩崎由美子、筑波大学美術学部学生 Bo Andersson, Sophi Vejrich,Björn Stampes, Gunnel Pettersson, Lena Blohme
2011年10月17日(月)~11月12日(土)
会場:さいたま市民医療センター
さいたま市西区島根229番地1 電話:048-626-0011(代表) http://www.scmc.or.jp/
主催:浸透する流れ展実行委員会
共催:さいたま市民医療センター
後援:在日スウェーデン大使館、ストックホルム県文化課、さいたま市、さいたま市教育委員会、NHKさいたま放送局、テレ玉、朝日新聞社さいたま総局、毎日新聞社さいたま支局、読売新聞さいたま支局、埼玉新聞社
協力:ストックホルム県芸術課、埼玉県立大宮広陵高校、アルピーノ、(有)アートセンター
セミナー『病院とアート』について
日時:2011年10月19日(水) 17:30-19:30
会場:さいたま市民医療センター会議室
「ホスピタルアート~これからの医療環境」中山茂樹(千葉大学大学院教授)
「自己救済を共にするアート」中村英樹(美術評論家)
Gunnel Pettersson(アーティスト)
「スウェーデンの病院とアート」塩崎由美子(美術家)