100号の大作が売れたのを機に、ヨシズミさんはヨーロッパに旅に出た。パリなど都市の画廊を廻るうち、日本ではよく知られた作家もこちらではまったく無名であることを知った。この旅の中で、日本国内だけで発表し続けることの限界を感じ、これからは活動の場を国際的な舞台に移さなければいけないと強く感じた。
スペインのグラナダにある版画のアーティスト・イン・レジデンスへの入学が許可され、1978年から79年にかけてヨーロッパ式の銅版画技法を学んだ。日本で制作した銅版画やリトグラフを見た指導者から「もう何も教えることはないから好きなように制作しなさい」と言われ、ヨシズミさんはここで制作三昧の日々を送った。プロセスを重視した職人的な日本の版画に対し、臨機応変にやり方を変えていくここの即興性が性に合った。
バルセロナの「ホアン・ミロ国際ドローイング展」を皮切りに、クラクフ、カトビツェ、ウッジ、ルブリン、イビザ、グレンヒェン、バルパライソ、ベルリン、ソウル、ヴァルナ、ブダペスト、ジェール、リュブリアナ、プラハ、ヴィルニウス、クルージュ、ティミショワラ、ウジェッツェ、ギザ、ボパール等の国際版画展等に次々と出品し、受賞を重ねていった。
各国での評価が高まるにつれ、ヨシズミさんはこれらの展覧会のいくつかの会議に招聘されるようになった。特にルーマニアでは、アーティストであり「クルージュ国際ミニプリント・ビエンナーレ」のディレクターでもあるオヴィデウ(Ovidiu)とリリオアラ・ペテカ(lilioara Petca)夫妻をはじめ、多数の美術関係者と親交を結んだ。
このビエンナーレは2005年までに5回行われ、今年の秋からはまた新たなプロジェクトがスタートするそうだ。ペテカ夫妻のこうした情熱とそれを可能にする寛容さに、ヨシズミさんは再三に渡り刺激を受けてきた。
知覚から受ける感動をどう作画に導き出せるのか、思考錯誤の日々が昼夜を問わず20年余り続いた。1993年、久々の油彩画による個展を都内で開き、そのひとつの結論が提示された。この個展は、それまでヨシズミさんの活動を支えてくれた多くの人々に対する感謝の表明でもあった。
作品というのは、経験の蓄積が垣間見せる表層の現れだとヨシズミさんはいう。そして、積み重なったそれぞれの層が密着していればいるほど、内実のある作品が生まれる。ゆえに作品を制作することは、自ら積み重ねてきた時間を遡りながらそれらの層を確認していく作業となる。しかしそこを遡上すればするほど、その奥の層が次々と現れてくる。
ヨシズミさんの傍らには、いつも父の絵が置いてある。思えばあの自然さは、古代人の造形と同様に、表層とその最下層とが時空を超え一体化することによってもたらされていたのではないか。だからこそ、見る者をあそこまで深く安堵させることができたのだ。
小さな額に入った作品を眺めながら、ここに至る手がかりさえまだ掴めないとヨシズミさんは苦笑する。(おわり)
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