忍者ブログ
http://srep.blog.shinobi.jp/
さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
WRITE ≫  ADMIN ≫
埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
フリーエリア
最新コメント
[12/05 小川町伊東]
[11/02 大園 弥栄子]
[06/24 NONAME]
[06/24 NONAME]
[11/13 松永です。]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
松永康
性別:
男性
バーコード
ブログ内検索
カウンター
[4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14]
■ [PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


 100号の大作が売れたのを機に、ヨシズミさんはヨーロッパに旅に出た。パリなど都市の画廊を廻るうち、日本ではよく知られた作家もこちらではまったく無名であることを知った。この旅の中で、日本国内だけで発表し続けることの限界を感じ、これからは活動の場を国際的な舞台に移さなければいけないと強く感じた。
 スペインのグラナダにある版画のアーティスト・イン・レジデンスへの入学が許可され、1978年から79年にかけてヨーロッパ式の銅版画技法を学んだ。日本で制作した銅版画やリトグラフを見た指導者から「もう何も教えることはないから好きなように制作しなさい」と言われ、ヨシズミさんはここで制作三昧の日々を送った。プロセスを重視した職人的な日本の版画に対し、臨機応変にやり方を変えていくここの即興性が性に合った。
 バルセロナの「ホアン・ミロ国際ドローイング展」を皮切りに、クラクフ、カトビツェ、ウッジ、ルブリン、イビザ、グレンヒェン、バルパライソ、ベルリン、ソウル、ヴァルナ、ブダペスト、ジェール、リュブリアナ、プラハ、ヴィルニウス、クルージュ、ティミショワラ、ウジェッツェ、ギザ、ボパール等の国際版画展等に次々と出品し、受賞を重ねていった。
 各国での評価が高まるにつれ、ヨシズミさんはこれらの展覧会のいくつかの会議に招聘されるようになった。特にルーマニアでは、アーティストであり「クルージュ国際ミニプリント・ビエンナーレ」のディレクターでもあるオヴィデウ(Ovidiu)とリリオアラ・ペテカ(lilioara Petca)夫妻をはじめ、多数の美術関係者と親交を結んだ。
 このビエンナーレは2005年までに5回行われ、今年の秋からはまた新たなプロジェクトがスタートするそうだ。ペテカ夫妻のこうした情熱とそれを可能にする寛容さに、ヨシズミさんは再三に渡り刺激を受けてきた。
知覚から受ける感動をどう作画に導き出せるのか、思考錯誤の日々が昼夜を問わず20年余り続いた。1993年、久々の油彩画による個展を都内で開き、そのひとつの結論が提示された。この個展は、それまでヨシズミさんの活動を支えてくれた多くの人々に対する感謝の表明でもあった。

 作品というのは、経験の蓄積が垣間見せる表層の現れだとヨシズミさんはいう。そして、積み重なったそれぞれの層が密着していればいるほど、内実のある作品が生まれる。ゆえに作品を制作することは、自ら積み重ねてきた時間を遡りながらそれらの層を確認していく作業となる。しかしそこを遡上すればするほど、その奥の層が次々と現れてくる。
 ヨシズミさんの傍らには、いつも父の絵が置いてある。思えばあの自然さは、古代人の造形と同様に、表層とその最下層とが時空を超え一体化することによってもたらされていたのではないか。だからこそ、見る者をあそこまで深く安堵させることができたのだ。
 小さな額に入った作品を眺めながら、ここに至る手がかりさえまだ掴めないとヨシズミさんは苦笑する。(おわり)

PR

昨年、「ありあるクリエーションズ」主催により、古河市にある街角美術館でヨシズミ トシオさんの母親の三回忌を兼ねた展覧会が開かれた。そこで私は、ヨシズミさんの作品と併せてご両親の遺作もまとめて見ることができた。
 几帳面に描かれたお母さんの水彩画、クレヨンと色鉛筆だけで描かれた飄々としたお父さんの絵は、本人は至ってまじめに描いているにもかかわらず、見ているうち思わず笑みを誘われるものだった。一切の思考や技巧を排することで、1本1本の線からは逆にその人の生き方までもが透けて見えてくるようなのだ。

 ヨシズミさんは1952年に生まれた。自然や生き物と触れ合い、創作事に熱中する幼年期を過ごした。小学校2年生のときには、すでに絵描きになりたいと考えていたらしい。
 中学校に上がり一人の熱血美術教師と出会った。2年の夏休みのとき、この教師は創作の得意な生徒を5名ほど選び、ブリジストン美術館などを見に連れて行ってくれた。ヨシズミさんは、この時の感動を今でも鮮烈に憶えているという。
 高校時代は3年間美術部に在籍し、独学で作品制作に没入していった。都内の美術館や画廊にも自分で通うようになり、本格的に絵を描き始めることとなる。画材代はゴルフ場でキャディーのアルバイトなどをして自ら稼いだ。いつしか東京藝術大学への入学を目指すようになった。 
 高校卒業後、アルバイトをしながら都内の美大受験予備校に通った。東京藝術大学だけを目指して2度受験するが、いずれも失敗。以後、独自の道を歩み始める。
 19歳の時、銀座で初めての個展を開いた。それ以前から出品していた東京都美術館の公募団体展でも、この年準会員に推挙され翌年には会員に推挙されるが、こちらは5回出品して退会。
このころはグザヴィエ・ド・ラングレの名著『油彩画の技術』などを通して油彩技法の歴史を学び、またレンブラントなど古典絵画の影響から重厚感のある色調の作品を描いていた。
 同じ年、アパート暮しを始めるが、引越しの3日後には2度目の個展のオープニングを控えていた。そしてその2ヵ月後に3度目の個展といったぐあいで、絶え間ない制作の日々が続いた。その合間を縫っては神田の古本屋に出かけて、また活力を得るため見知らぬ土地を徘徊し、さらには住居も転々と変えていくことになる。
 1972年、団体展に出品していた作品が、たまたま銀座にある大阪フォルム画廊の2人の店員の目に止まった。この画廊に出入りするうち、グリーングラフィックスという版画工房を紹介され、そこで銅版画とリトグラフを制作するようになる。技法書や歴史上著名な作家の画集を参考にしながら、さまざまな技法を習得していった。しかし間もなく、社長の死に伴って画廊は閉鎖し、その後はエッチングとリトグラフ用のプレスを入手して自ら摺りを行うようになる。(つづく)


 東武伊勢崎線加須駅のすぐ目の前に「康良居(やすらい)アトリエ」はある。もともと米蔵として使われていたところで、近くに住む末柄(すえがら)家が所有している。
 かつてこのあたりの土地は、「康良居」と呼ばれていた。そこで先代の末柄章八氏は、自分が持っていた建物に「康良居倶楽部」や「康良居プレイス」などという名前をつけていた。しかし駅前開発が進み、最終的に美術家が使っていたこの蔵だけが残って、誰ともなくここを「康良居アトリエ」と呼ぶようになったのだそうだ。
 先代には千秋さんという子息がおり、金沢美術工芸大学の彫刻科を出たあと、関根伸夫さんのアシスタントをしながら茨城県の真壁で石を彫っていた。1980年代に入って間もない頃、ここを共同アトリエとして貸し出すことになったため、千秋さんは予備校時代の知り合いに声をかけた。そして、6つある部屋のうち1号室に2人の画家、5、6号室に9人の彫刻家が入ることとなった。
 間もなく1号室を使っていた人たちが退室したため、1984年に、江川夏樹さん、関井一夫さん、田中俊介さん、藤田政利さんらが入居した。彼らは東京芸術大学鍛金科を卒業し、ちょうど制作のための場所を探していたところだった。その後、1号室には大塚武司さんと織田このみさんが加わり、現在は6人で使っている。
 一方で彫刻の部屋も少しずつ人数が減り、今、残っているのは木彫をやっている濱崎茂さんだけとなった。濱崎さんは、1980年代から90年代にかけて神田のときわ画廊で頻繁に発表していた人だ。そして空いた6号室は、1号室の人たちの作品置き場となった。
 一方で2号室は、1980年代後半から工芸会社の下請け作業で使われるようになっていた。折からの好景気を受けて造形物の発注が次々と舞い込み、一時は大勢のアルバイトが集まってきた。そしてバブルがはじけると、ここにはまたもとの静けさが戻ってきた。
 その後、空いたままになっていた2号室に2005年から入居したのが、金属造形をやっている江原愛さん、細田尚美さん、鈴木真由美さん、山崎美智子さんの4人だった。間もなくそこに福地秀幸さんが加わり、昨年は銀座のギャラリーSOLで「康良居アトリエ二号室展」も開いた。そして最近、今井由香さんが入って総勢6人となった。
 4号室には国際ガラス学院を卒業した守屋孝浩さんがいる。試験管やビーカーなどを変形させ不思議なオブジェを作っている。
 当初、ここにいたのはほぼ同世代の人たちだったが、現在は20代から60代まで幅広い層が利用している。金属造形関係が多いが、作っているものはみなバラバラだ。さらに、それぞれ自分の都合に合わせて来ているので、全員が顔を会わせることもほとんどない。
 メンバーが親睦を深める唯一の機会は11月の鞴(ふいご)祭だ。このときばかりは、それぞれの友人も誘って無礼講が続く。こうした親交があるからこそふだんから、制作上の問題などに突き当たったとき気軽に意見を交すこともできるのだ。若い人たちにとっては、そこが共同アトリエの最大のメリットだと思う。
 先代が亡くなったあと、連れ合いがときどきようすを見に来てくれたが、昨年、この方も亡くなり、現在はそのお孫さんが後を継いでいる。しかし、実質的な管理は使用者自身に全面的に任された状態だ。
 風景が大きく変わる中、あたかもこの場所だけが時が止まったようにかつての姿を残している。駅前の一等地、その気になれば何にでも転用できる場所だ。そこを美術家のために維持し続けているところに、先代から受け継いだ文化支援に対する強い信念を感じる。



 柳井嗣雄さんは自らのアトリエでの展示で、去年から「9月の創発」に参加している。その会場で今年は、阿蘇山晴子さんが柳井さんの作品と向きあうパフォーマンスを行うという。
 阿蘇山さんは1980年代の初めから、布を使ってダイナミックな作品を展開させてきた。2006年にマキイマサルファインアーツでの個展を見て以来、柳井さんの作品がずっと気になっていたらしい。翌年、同じ画廊で自らの個展が開かれたことも何かの縁と感じられた。
 昨年、このアトリエで行われた柳井さんの展示を見に来ようとしたが、マップに記載されていた電話番号が違っていてアポイントが取れず、そのときは訪ねられないままになった。その直後、鎌倉の光則寺というお寺で行われた柳井さんの展示を見に行き、改めて柳井さんの作品の持つ生命感に強く引かれたらしい。
 阿蘇山さんは1998年から2003年にかけて、埼玉県立近代美術館の最も広い貸し展示室を使い、「怪物覚変身場」という展覧会のシリーズを3回に渡って行った。これは空間軸としてインスタレーションを設置し、そこにパフォーマンスとしての時間性を持ち込むことで、躍動する作品空間を出現させるものだった。
 それが終了して以降、阿蘇山さんはパフォーマンスから離れ、しばらくインスタレーションによる空間表現に打ち込むようになる。ところがいつしか体が勝手に動きだし、件のマキイマサルファインアーツでの展覧会や、以前から縁のあった千葉の芝山仁王尊観音教寺でのイベントでパフォーマンスが再会されるようになった。
 こうした流れの中で阿蘇山さんは、今年の「9月の創発」にはお寺での展示で臨みたいと考えていた。しかし、県内のいくつかの寺を訪ねてみたものの、なかなか適当な場所が見つからない。そこで改めて柳井さんに連絡をとり、コラボレーションがやれないか打診してみたところ、柳井さんはそれを受けて立ってくれたという次第だった。
 阿蘇山さんはこれまで、文字表記や工芸品、身体表現等、異なる表現領域を合体させることで作品を成立させてきた。他の表現を取り込むことで自らの作品の普遍性をより高めてきたのだ。そして、それを共同制作とするのではなく、あくまでも自分の作品として完結させていくところに特徴があった。そこがこれまで、美術家とのコラボレーションを成立させにくくしていた理由だったのかもしれない。
 柳井さんは、今回はアトリエに平面作品と立体作品を置き、庭一面に麻の繊維を敷き詰めるという。阿蘇山さんはオーガンジーを素材としたモノトーンの布で身を包み、その2つの空間に関わっていくらしい。そのことで、柳井さんの作品の中に溶け込むことを目指すのだ。
 柳井さんの植物繊維は、凝縮した生命感を漲らせている。一方で阿蘇山さんの作品は、限りなく膨張する生命体だ。時まさに夏と秋とを分かつ夕間暮れ。この2つの方向が交叉することで、どのような生命の躍動が巻き起こるのか楽しみである。



 県道青梅入間線の街道筋からちょっと奥に入ったところに、1999年にオープンした「アトリエキャトル」はある。ここには、昨年、ギャラリー麦での個展で「9月の創発」に参加した田代絢子さんの作業場がある。そして今年は、やはりこのアトリエを使っている斎藤輝昭さんがギャラリー麦の個展で「9月の創発」に参加する。
 彼らがここに入るきっかけを作ったのは、画家の山尾才さんだった。山尾さんはかつて所沢の下山口にアトリエを構えていたが、隣の不動産屋の社長さんから入間にアパートができるという情報を聞きつけた。「絵描きはアトリエに困っているので、倉庫のようなアトリエにしたらすぐ入居者が見つかりますよ」とアドバイスすると、土地の持ち主が乗ってきて、とんとん拍子で四軒長屋のアトリエができることになった。
 山尾さんは、そのことをさっそく美術家仲間の出店久夫さんや斉藤さん、田代さんらに伝え、そこを先行予約することにした。アトリエは4つの部屋に分かれており、1号室を出店さん、2号室を斉藤・田代夫妻、そして3号室を山尾さんが使うことになった。4号室には別なルートで飯能在住の書家が入った。
 ところがいざ入居してみると、部屋ごとに並行して入ることになっていた梁がなく、その代わり1室から2室、3室から4室へと太い金属の梁が2本突き抜けているではないか。これではこの梁がじゃまで、大きな絵を立てて描くことができない。どうも請け負った工務店が勝手に設計を変更したらしいのだが、それでもみな昔ながらのよしみで、使い方を工夫しながらいまだにこのアトリエで制作を続けている。
 昔なじみとはいっても、それぞれに使っている材料や技法、表現のテーマはまったく違う。出店さんは写真をコラージュで再構成してゆき、それが最終的に絵画作品となる。斎藤さんは長くパリに滞在し、アンフォルメルの影響を受けながら純粋抽象の絵画世界を築き上げた。田代さんは、やはりパリにあるヘイターの版画工房でさまざまな技法を身に付け、そこから生み出される多様な表現を追求している。
 山尾さんは間もなく滋賀に移ることになり、その後、3号室に入ったのが宇賀地洋子さんだった。宇賀地さんは、木を使って女性の豊穣さを示す人体像を彫っている。子育てのため木彫に専念できなかったとき、同じ木を用いるということで木版画も始めた。
 ふだんはそれぞれ別個に制作をしているが、深夜ともなると自ずと隣室の気配が伝わってくる。こんな時間にまだ制作を続けているのだ。そう思うと不思議な一体感に包まれ、「自分もがんばらねば」と緩んだ気持ちが奮い立たされるという。
 ここがオープンして間もないころ、アトリエの柿落し展を開いたことがある。その後、斎藤・田代夫妻が1、2度、作品を展示したが、この場所を不特定多数の人々に公開するのはこれが初めてだ。
 そして今回は、すぐ近くに住む西野一男さんも自らのアトリエを使って展示に加わる。西野さんのお宅は理容店で、その奥隣りがアトリエになっている。筆跡の強く残る作品で埋め尽くされた部屋に入ると、その空間自体がひとつの作品として迫ってくる。
 この周辺には他にも数多くの美術家が住んでいる。しかし彼らは、必要なとき以外は基本的に接触を持たない。逆に言えば必要な部分でのみつながっている。ある意味でそれは、とても今日的な人間関係のように思える。こうした開かれた関係のありようが、都市周辺地域のコミュニティを考えるうえで、大きな示唆を与えてくれるのではないかと思った。

忍者ブログ [PR]
Powered by 忍者ブログ  Design by © まめの
Copyright © [ 五十路のチビジ ] All Rights Reserved.