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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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 松伏町でCON展がスタートしたのは、まさにこのような時期であった。当初は一般的な美術展の形式をとっていたが、町の社会福祉協議会とタイアップし、会期中、独り暮らしの老人の会食会に会場を提供したり、チャリティーのための作品頒布会を開くなど、地元と接触を持つための工夫がすでに見られる。
 第2回展からは、やはり地元住民による朗読や音楽演奏が関連イベントとして取り入れられた。5回展では、町内の民話収集グループによる朗読会が行われ、それに合わせて民話を題材とした作品を出品者が制作した。またこの年には、一般参加者とともに作品を制作するワークショップも実施している。
 さらに第7回展ではパーティ料理にも工夫を凝らし、日常生活との接点を一層広め、8回展が行われた2003年には、出品者は年間を通してリレー式でワークショップを行った。10回展のときは、音響のよさで知られる館内のコンサートホールを使い、古楽器による大がかりな演奏会が並催された。
 第11回展ではついに、巨大に膨れ上がったこの催しを象徴するかのように、「フリカッセ=ごった煮の意味を考える」という副題が付けられた。こうなってくると、参加者でさえ事業の全体像を把握しきれなくなっていたのではないか。そして12回展となる今回、この事業は改めて初心に戻り、他の関連イベントをすべて切り離すことでもういちど純粋な美術展の開催となったわけである。
 ここには、ひとつの運動体が芽生え、それが拡張してまた収束するまでのひとつのサイクルが見られる。まず初めに、同じ目的を持った集団がひとつの事業を立ち上げる。そして、異なる目的を持ったグループとの併合を繰り返しながら規模を拡大させてゆく。ときには、別な集団に属する個人どうしが協同して新たな運動を派生させることもある。
 しかし一方で、規模が拡大するにつれて、催しの全体像が見えにくくなり、運動体の目的自体があいまいになってくる。参加者をつなぐ球心力も弱くなり、一方で気の合う者どうしの小さなグループが生まれ始める。そこで浮遊化した小集団は、その内部で再び目的を醸成させながら、それぞれが新たな運動体として活動を開始するのである。
 CON展では、美術の他に音楽、民話、料理といった異なる表現分野が混在していった。それらの連携の過程で、領域ごとに催し物の展開のさせ方に違いが現れたのではないか。たとえば音楽などの舞台芸術系では、催し物を大きくするときは観客を増やすのがふつうだ。舞台には必ず客席があるので、それは当然なのだろう。
 ところが美術の世界では、事業拡大のためには、観客ではなく展覧会の出品者を増やすという方法が採られてきた。そのため展覧会を見に来る人も、自分で作品を作っていることが多い。また、あえて作家以外の人を集めるときは、ワークショップなどで平易な実技指導を行うことになる。そうするとますます、作品を作らない人は美術の世界に入りにくくなる。こうした悪循環が背景にあり、今日、日本の美術界は美術家だけで固められ、極めて強い閉塞感を持つようになったと思われる。
 この閉塞状況を打ち破るため、近年では、学習指導要領の中で鑑賞教育の時間を増やすなど、新たな取り組みが行われるようになった。それはそれで重要ではあるが、すぐに効果が現れるというものでもない。それよりもっと手っ取り早いのは、まさにCON展が行ってきたように、領域の異なる活動を行っているグループが互いに接点を持ち連帯することで、催しの規模を膨らませていくというやり方のように思われる。そのことでメンバーも閉塞感に陥ることなく、また異なる分野からの示唆を受けながら、これまでと違う催し物のあり方が学べるのではないだろうか。(つづく)
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 11月22日、松伏町で行われているCON展に行った。夕方、行われるアートツアーと、その後のシンポジウムに参加するのが目的だった。
 この展覧会は以前にも見に来たことがあった。田んぼ道を延々と走ってゆくと、かなたにポッカリと島のように浮かんだ街が見えてくる。ところが一歩街路に入るとそこは完璧な新興住宅地で、周囲が田んぼであることなどすっかり忘れてしまう。あたかもそれはヨーロッパ南部にある要塞都市のようだ。埼玉の東端に位置するこの町は、平野部では数少ない鉄道の通っていない地域なのだ。
 CON展は1995年から開始された。中心メンバーのひとりである高橋理加さんがまとめてくれた「CON展の沿革」によると、その数年前から、大石雅子さんと雨宮正幸さんという人が自宅アトリエの一部をギャラリーとして公開したのがきっかけだったという。彼らは、作品の発表場所があまりにも都内に偏り過ぎていることに疑問を持ち、このような活動を始めたらしい。そして、それに共感した飯島昌さんが、大石さんとともに町内在住の美
術家たちに声をかけて発足したのがこのCON展だった。
 1990年前後にバブル経済が破綻し、国民総出で推進してきた大きな夢が消え失せた。それを受けて行政は、地元に目を向けさせる政策を各地で行うようになった。人々もまた、将来的な発展よりも今の豊かさを保持するため、身近な楽しみを追求するようになっていた。そしてそれを実現できるのは、中央ではなく、やはり日々の生活を営む日常の場であった。
 美術の世界も状況は同じだった。すでに全国に県立美術館が出揃い、どこの地方都市でもいわゆる泰西名画が見られるようになっていた。しかし、すでに自治体は、新たにそのような作品を買う余力はない。そこで、その次のステップとして注目され始めたのが、アーティスト・イン・レジデンスという方法だった。
 アーティスト・イン・レジデンスとは、芸術家に住居と制作場所を提供し、地域の人々と交流を行うことのできる施設である。美術館は、美術作品と出会いその価値を知る場所だ。それに対してアーティスト・イン・レジデンスは、美術家自身に触れて、彼らの活動の意義を知ることが目的であった。そこには、物から人へという大きな価値の転換があった。
 その先駆けとなったのが、「多摩ライフ21」事業の一環として1993年に東京都が実施したアーティスト・イン・レジデンスである。これは都と、立川や八王子といった多摩地区の市町村とがタイアップすることで実現した。またそれを追うように、茨城県のアーカス・プロジェクト(1995年~)や埼玉県の彩の国さいたまアーチスト・イン・レジデンス事業(1996年~)が首都圏で始められた。
 ところが、これらの中で今も堅実な活動を行っているのは、アーカス・プロジェクトのみとなった。多摩ライフ21の方は、都が1年で手を引き市町村に後始末を押しつけたため、ひとつまたひとつと姿を消し、今では五日市(現在はあきる野市)が貸し施設として細々と残るのみだし、埼玉県は埼玉県で、行政的な配慮から年ごとに実施市町村を変えたため、結局この事業が根づくことはなかった。
 一方で経済界では、1991年に企業メセナ協議会が発足し、企業もまた新たな文化創生に貢献しようという気運が高まっていた。バブル期に、企業は多額の余剰金をつぎ込んで泰西名画の買い占めに奔走した。そうした動きに対して企業メセナ協議会は、余剰金の有効利用に関して企業の規範を示したのである。折しも文化庁がアーティスト・イン・レジデンスに対する補助金制度を新設し、この名を借りた事業が各地で多発するようになった時期だった。
 行政や企業のこうした働きかけに対応して、美術を街興しの一環として利用できるのではないかという期待が各地で高まった。当時、首都圏では、野外の表現展(1991年~、埼玉)、フィールドワークイン藤野(1993~98年、神奈川)、雨引の里と彫刻(1996年~茨城)、我孫子国際野外美術展(1998年~、千葉)等が相次いで開始されている。これらは、主に東京都内で発表活動を行っていた美術家たちが、自分たちが住みまた活動している場所で作品の制作と発表を行うという点で、いずれも共通していた。
 実はそれに先駆け1980年代にも、夏休みなどの一定期間、海浜や山間地域などで郊外型の美術展が頻繁に行われていたのだが、そこに参加していた美術家たちは、住民との接触というより画廊以外の場所で表現の実験を行うことが目的だった。その意味で、こうした地域密着型の展覧会は、1990年代のひとつの特色であったと言える。(つづく)


第12回CON展
2008年11月21日(金)~11月23日(日)
9:00-21:00(初日は10:00より、最終日は17:00まで)
出品者:飯島昌、石田滋子、小沢智恵子、カトリーヌ石本、上坂悟、佐々木美知子、TAKAO、鈴木康弘、鈴木妙子、染谷栄、高橋理加、中村通孝、野崎ナナ、村上瑛子、山本あまよかしむ

アートツアー/11月22日(土)16:00-17:00
シンポジウム「テーマ/地域と美術」・交流/11月22日(土)17:30-20:00

主催:CON/後援:松伏町教育委員会、東武朝日新聞社東武よみうり新聞社
会場:松伏町中央公民館田園ホールエローラ
343-0114北葛飾郡松伏町ゆめみ野東3-14-6
電話048-992-1001・048-992-1321
http://www.ellora.jp/ellora/map.pdf

問合せ048-991-3279(飯島)

 


 ところで、これは余談だが、アトリアに行くとよく子どもの姿を目にする。そのこと自体はよいのだが、問題は、彼らが気軽に展示作品に触ろうとすることだという。アトリアは場所がら、造形教育の場としての機能を重視しており、子どもたちの創造性を培うためのワークショップをしばしば実施している。そのため、子どもたちにとってアトリアは、作品鑑賞の場というより創作の場というイメージが強いのだと思う。そうした状況に対し宮川さんは、作品の展示施設では、作品の見方をまず第一に教えるべきではないかと疑問を呈する。
 今日の公共の美術施設の中で、子どものための造形プログラムを実施していないところはない。どこでも何かしら、子ども向けのワークショップが開かれている。その中でも特に問題となるのは、鑑賞のための場と創作のための場が近接している施設である。そこでは、子どもたちの意識の中で、作品を見ることと作ることがうまく切り替えられないのだ。そのため、アトリアのように限られたスペースでその両立を目指さなければならない場合、さまざまな矛盾が起きてくる。
 明治以降、西洋からもたらされた「美術」は、社会制度として日本国内に根づいていった。一方、戦後になると、個性重視の教育制度を通して、子どもたちの創作の中に新たな芸術性が見出されるようになった。しかし、同じ「美術」という言葉が当てられてはいるが、実は、これらはまったく別な機能を有しているのだ。
 鑑賞のための教育施設と創造のための教育施設は、いずれ分けられていくと思う。それまでの間、この二重基準をどのように調整していくかが、公立の美術施設に課される問題となるだろう。(おわり)

 話は江戸時代に遡る。その頃、日本に「美術」という枠はなく、大和絵や浮世絵、仏像彫刻、焼き物といった領域ごとに、それぞれ異なる流通システムを持っていた。ところが、開国して欧米から「美術」という制度が導入され、それがひとつの業種として世間で位置づけられるようになった。以降、ものづくりを専門とする技術者たちは、領域の別を超えて「美術」という絆によって緩やかに結びつくようになった。
 美術業界の最も重要な役割は、優れた美術家や美術作品を評価し選別することである。そこで日本では、分野ごとに美術家の序列が形成され、上位者が下位者を評価し選別するというシステムが生まれた。そうなると、作品の善し悪しは美術家の間だけで審理され、作品を作っていない人たちの見方はその価値判断から排除されるようになる。
 こうしたあり方に対し、1960年代から変化が起きた。まず美術評論家と呼ばれる人々が、美術雑誌等の後押しを受けながら、美術家の評価や選別に関与するようになったのだ。その後、美術記者や美術館員といった美術家以外の専門職たちが、次々と作品の評価に加担してきた。こうした変化を受け入れようとする人々と排除する人々が、鮮烈な対立を起こすこともままあった。しかし、その波にさらされることなく、美術家が美術業界を取り仕切るという伝統的なシステムを継承しているところもまだ多い。
 さいたま市周辺にはたくさんの美術家が居住していながら、横浜と比べて彼らの活動が周知されにくいことを、私はこれまで繰り返し述べてきた。その理由を探るため、試みに2006年度の美術手帖の美術年鑑から、美術評論家、美術ジャーナリストといった美術家以外の美術関係者の数を拾い上げてみたことがある。その結果、神奈川県には26人いたのに対し、埼玉県ではたった6人しか見つけられなかった。マスメディアが美術家を紹介するとき、まずその媒介者から情報提供を受けようとするのは考えてみれば当然のことで、埼玉にはその人材が欠けていたのである。
 かつて美術作品は、作者から直接、利用者に手渡されるものだった。産地直売方式と言ってもよい。こうした流通のあり方は、これからも消えることはないだろう。しかし、美術家の活動が社会の中で承認されるためには、作品の流通を仲介する立場の人間がどうしても必要となる。商品情報を広く正確に伝えることが、まさに流通業者の役目だからだ。今日、同時代の美術が一般の人たちにもようやく認知されるようになったが、そのために美術の媒介者たちが果たした力は測り知れない。
 ART SALAD展では、展覧会から離れていく作家がいる一方で、メンバーからの推薦により近隣在住の出品者が増えてきているという。そのことで、展覧会に関わる業務の分担がしやすくなったそうだ。出品者たちがそれぞれ役割を分け合うようになると、作品を作っていない人も自ずと展覧会への加担がしやすくなるのではないか。美術家自身のために行われていた展覧会は、こうして少しずつみんなのものへと開かれていくのだと思う。
 そういえば、これまでは同展の紹介文に、「Gアートギャラリーで出品していた作家たちを中心として」という言葉を入れていたのだが、今回はそれを外したそうだ。これもまた、この展覧会が公共性を持ちつつあることの証だろう。展覧会が個人的な枠を超えて、美術家と社会を結ぶ媒介として機能し始めたのだ。プロデューサーという立場で関わっている宮川さんの本領が発揮されるのは、まさにこれからである。(つづく)

 9月23日に開かれたART SALAD展のオープニングに行った。川口市立アートギャラリー・アトリアと、masuii R.D.Rの2会場を使って行われていた。アトリアはすべての会場を使った14人の美術家による大作の展示で、それぞれがこの会場のために力のこもった作品を制作していた。一方、masuii R.D.Rの方は38人の美術家による小品展で、ドローイングやレリーフ、オブジェなどバラエティーに富み、どれも手に取ってみたくなる作品ばかりであった。
 この展覧会をプロデュースする宮川真弓さんは、長く銀座のGアートギャラリーに勤務していた人だ。画廊での仕事の傍ら、展覧会を行う作家と個人的な付き合いを深めていたという。遠方の作家には、宿泊場所として川口の自宅を提供したりもした。しかし同画廊は、常連の利用者たちに惜しまれながら2003年12月に閉廊した。
 それから1年がたった2004年12月、川口のmasuii R.D.Rで、Gアートギャラリーに関わった30人の作家展が開かれることになった。それはあたかも同窓会のような盛り上がりとなった。ART SALADというタイトルは、アーティストを旬の野菜に見立て、それにプロデューサーというドレッシングをかけて味わってもらうことを願い名づけたという。
 第1回展終了後、1年半のあいだを置き、2006年3月にmasuii R.D.Rと川口アートファクトリーの2会場を使ってART SALADの第2回展が開かれた。適度に開いたメンバーたちの距離感覚が、互いの絆をかえって強めたのだろう。川口アートファクトリーには、本格的な作品づくりに挑戦したくなった5人の作家の大作が展示された。
 前述のように、第4回展となる今回は、masuii R.D.Rに川口市立アートギャラリー・アトリアを加え、さらに12月には、ソウルにあるクァンフン・ギャラリーにも巡回することになっている。ソウル展に関しては、第3回展から加わった3人の韓国人作家がその準備に当たっており、このことでまた新たな展開の兆しも見えてきた。
 宮川さんは、展示にはっきりしたテーマを掲げず、作品の内容もそれぞれの作家に任せているという。その点で作家主体の展覧会のようにも見える。企画展の場合は、展覧会の趣旨や出品者の選択を通して世に何かを問うことが多いのだが、ART SALAD展はそれらとまったく違ったスタンスを取っている。この展覧会の目的はむしろ、発表の場をつくること自体にあり、そのことで美術家たちに制作を続けるための動機づけを行っているように思える。
 戦後の経済成長の中で、作品制作を行おうとする人々は、自ら経費を負担することで発表活動を行ってきた。しかし経済成長がすでに終焉した今日、大多数の美術家たちは、心身ともにその余裕を失いつつある。制作を続ける意志はあっても、環境がそれを許さなくなったのだ。そうした美術家たちの心境を現場で直に見てきた宮川さんは、かつてGアートギャラリーが果たした役割を、別な形で再生させようとしているのではないか。そして、こうした時代だからこそ宮川さんのような人の存在が注目されるのである。
 民間で行われている展覧会の中で、ART SALADのように美術家以外の人が中心になってとりまとめている例は以外に少ない。作品の制作はもちろん、会場費の支払い、作品の運搬・展示、広報物の製作・送付といったすべての雑務を作者自身でこなすのがふつうだ。公共的な催しであるはずの美術展が作者の内で自己完結しているのは、他の先進国に見られない現象である。いったいどのようにして、日本にこのようなシステムが定着してきたのだろう。(つづく)


ART SALAD-38人による小さな作品展
2008年9月22日~10月5日
masuii R.D.R
川口市幸町3-8-25-109
電話:048-252-1735
http://www.masuii.co.jp/rdr-top.html

ART SALAD 14人展
2008年9月23日~28日
川口市立アートギャラリー・アトリア
川口市並木元町1-76
電話:048-253-0222
http://www.atlia.jp/

ART SALAD韓国巡回展
2008年12月17日~22日
Kwanhoon Gallery
195 Kwanhoon-dong,Chongro Seoul 110-300 Korea
http://www.kwanhoongallery.com

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