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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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「ふたりの女神-それぞれのmuse-」KAWAGUCHI ART FACTORY、9月5日(土)~27日(日)

 重工業から情報産業へという政策転換の中で、戦後、まもなく創業した日本金属鋳造工業株式会社が鋳造部門を閉鎖したのは1979年のことだった。その後、金子良治さんが会社を受け継ぎ貸し工場に業態を変えて運営を続ける中で、1984年から美術家がこの場所をアトリエとして使い始めるようになる。
 まず鷹尾俊一さんが制作を始め、そのつながりで10名ほどの彫刻家が入居。現在も制作を続ける坂井公明さんと和田政幸さんもこのころからのメンバーだ。ところが、その後の景気向上とともに美術造形物の制作依頼が増え、ここで活動する美術家たちも収入を求めてその作業に従事するようになる。そして中には、そちらを本業とする者も現れ始めた。
 金子さんはそうした状況に強い違和感を持った。美術というのは何かの役に立つものではなく、それ自体で成立するべきではないか。美術本来の姿を守るため、ここを純粋な作品制作の場として確保したいと思うようになった。しかし間もなくバブルは弾け、美術家たちは逆に生業を持つことさえ難しくなってきた。
 2002年になり、高野浩子さんや川上香織さんといった若い世代の美術家たちがこのアトリエに住み着くようになる。美術を目指す若者にとって、住居とアトリエを別々に持つことさえ難しくなっていたのだ。金子さんは格安の家賃で彼女たちを受け入れることにした。
 まず、川上さんが住み始めたことでこのスペースに変化が起きた。彼女の強い希望で、8月に川口市内で行われる「たたら祭り」に合わせ、在所の造形作家の展覧会を行おうということになったのだ。金子さんがちょうど、通りに面した空き店舗をギャラリーに改装しようと考えていたときのことだった。
 展覧会の会期に合わせ急いでギャラリーを完成させ、さらに空いていた4つの工場部分も展示会場として公開した。こうして、それまで制作の拠点として稼動していたこの空間は、「KAWAGUCHI ART FACTORY」として公に向けて発信を始めることとなる。
 ちょうどこのころ川口では、市内在住の漫画家である田代しんたろうさんがポータルサイト「eぎゃらりー川口」を開設し、市内で行われる美術イベントをネット配信し始めていた。そのことで、美術関連施設どうしの連携が頻繁に行われるようになった。
 金子さんは2003年、開発好明さんが中心になって全国展開していた「サンキュー・アートの日」に、川口では先頭切って参加する。さらにその翌年には、川口市内で初の大がかりな現代美術イベントとなる「Between ECO & EGO エコとエゴのはざまで」展が開かれることになり、そのメイン会場として場所を提供することになった。
 現在、KAWAGUCHI ART FACTORYは、年2回のペースで企画展を行っている。今年の9月には、ここで制作している高野浩子さんと義村京子さんの2人展が行われる予定だ。それぞれ日本画とテラコッタの作家だが、いずれも女性像をテーマとしているためタイトルを「ふたりの女神」とした。
 現在、7~8人のアーティストがこのアトリエを使っている。今日、アートが街おこしの道具としてしばしば利用
されるようになったが、アートを何かに役立てるより、まずアーティストがいるということが重要なのではないか。彼らができるだけ長く活動を続けられるようこの場所を維持することが自分の役目だと、金子さんは控えめに語った。

090716取材)

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「太田敦子版画展」柳沢画廊、9月5日(土)~19日(土)

 深明堂という、旧中山道沿いの印鑑店のビルの上に柳沢画廊はある。以前は印鑑店だけだったが、道路の拡張工事に伴い、店舗を3階建てのビルに建て替えることになった。父とともにこの店を営んでいた柳沢敏明さんは、ビルの2階と3階を使って画廊を始めることにした。1984年のことだった。
 柳沢さんは以前から趣味でよく画廊を回っており、気に入った版画を見つけては個人的にコレクションしていた。埼玉県内にも何件か画廊はあったが、当時はどこも貸し画廊ばかりだった。柳沢さんは、どうせやるなら自分で見たい作品を展示する企画画廊にしたいと考えた。
 当初は年に5、6回の企画展を開き、あとは自分の持っている作品を交互に飾っていた。3年目ぐらいからほぼ通年、企画展だけでスケジュールが埋まるようになった。そしてその頃から、この画廊で展覧会をやる作家も固定してきた。
 経済状況は上向きでよい時代だった。一時は、全国のコレクターを相手に版画の通販などもやっていた。ところが、1990年代も後半になると美術品の流通は激減し、現在は印鑑店での収益を画廊の運営費に回しながら維持するようになっている。
 こうした時代になり、柳沢さんは改めて、自分は版画が好きなのだということを実感していると言う。版画の中でも、特に物質感の強く現れた作品に引かれるらしい。だから銅版画や木版画の展示が必然的に多くなる。版画に引かれるのは印鑑を製作していることと関係あるかもしれないと、自らを省みる。愛好家にとって、その作品が売れるかどうかは二の次の問題なのだ。
 9月には、太田敦子さんの銅版画展が行われる。太田さんはこの画廊で初めての発表となる。たまたま訪ねてきて空間に興味を持った太田さんが、この画廊で展示してみたいと自ら申し出たそうだ。一方で柳沢さんも、銅版の腐食からイメージを導き出す太田さんの独自の表現に魅力を感じた。
 今後は、今までやっていない若手作家の作品も紹介してゆきたいと柳沢さんは考えている。好きな作品を展示するのが基本だが、同じように、美術家にもこの画廊に興味を持ってほしい。互いの信頼があるからこそ、双方の役割は活かされるのだ。四半世紀の年月を経て、この画廊はすでに柳沢さんの存在の一部となっている。

(090710取材)


「Kawaguchi Asian Art Project」masuii.R.D.R Galley & Shop、8月31日(月)~9月6日(日)
「Photo Cruising Kawaguchi」masuii.R.D.R Galley & Shop、9月21日(月・祝)~27日(日)

 masuii.R.D.R Galley & Shopは、1階をギャラリー、2階を設計事務所として2004年にオープンした。R.D.Rとは、リノベーション・デザイン・ルームの頭文字から取っている。2007年に2階の事務所が移転したため、以降、1、2階ともに画廊として運営することとなった。
 画廊を主宰する増井真理子さんは、大学でデザインを専攻したあとネット・オークション会社でアルバイトしていた。事務所の方は母や兄が運営していたが、そこに増井さんが呼び戻され、1階のギャラリーを任されることになった。
 展覧会を行うにあたり、この空間にふさわしい作家を探していたところ、地元の画家の永瀬恭一さんに行き当たった。柔らかな色彩の組み合わせやどんな空間にも溶け込んでいく筆致の流動性が、増井さんの心を捉えたのだろう。
 一方でこの画廊では、工芸関係の作品の展示も積極的に行っていくことにした。増井さん自身がデザイン専攻であったこともあるが、工芸品が置いてあることで現代美術に関心のない人も入ってきてくれるのではないかと期待した。以降、現代美術と現代工芸はこの画廊の2本柱になっていく。
 ところが、画廊を開けたものの表を通る人はなかなか中に入ってきてくれない。あるときひとりの作家が、展覧会に関連したワークショップを外で行い、その成果をこの画廊で展示するという計画を立てた。すると、ワークショップに参加した人たちが次々と画廊に入ってくるではないか。子どもたちと家族が集まった画廊は、まったく違う空間のように見えた。
 それを機に、増井さんの目は画廊の外に向けられるようになる。そうした方向性が結実したのが、昨年、西川口周辺の商店街を使って行われた「西川口アートプロジェクト」だった。今年はさらに焦点を絞り、「Kawaguchi Asian Art Project」を行うことにした。日本とアジアそれぞれ2人ずつのアーティストの活動を、前期と後期に分けて紹介するのだ。
 9月にはその後期の展示が行われる。出品者には、観客との関わりの中で生まれてくる作品を出品してもらうよう依頼した。福島佳奈さんとミャンマーのMoe Sattさんは、それぞれ展示とパフォーマンスを並行して行うことになっている。
 川口にはアジア系の人たちがたくさん暮らしている。せっかく身近にいる彼らの文化をもっと知りたい。今後はアサヒアートフェスティバルに参加して、活動の幅をさらに広げてゆきたいと、増井さんの抱負は尽きない。日本人の意識の国際化は、まだその緒に就いたばかりである。
 また9月の後半には「Photo Cruising Kawaguchi」が行われる。これはアート・コーディネーターの篠原誠司さんが中心となり、川口に関わりのある写真家に呼びかけて行うものである。いずれの企画も、川口の地域性に切り込んでいこうとする意図が明確に現れている。

(090716取材)


「金子健二遺作展Ⅲ」ギャラリー健、8月23日(日)~9月6日(日)
「てれどろ特別展」ギャラリー健、9月13日(日)~27日(日)

 8月から9月にかけて、中浦和駅前にあるギャラリー健では「金子健二遺作展Ⅲ」が開かれる。この画廊で行われる同氏の遺作展の第3期目である。
 金子健二さんは1948年、宮城県に生まれた。東京藝術大学大学院彫刻専攻を修了後、現在の場所に共同アトリエとして「浦和造形研究所」を開設する。彫刻家として活動を行う傍ら、研究所内に子どもの造形教室を開設し、また1987年には大人のための教室も併設した。
 一方で、子どもの造形教育を通して得た知見を生かし、1996年から「臨床美術」と名づけた独自のアートセラピーの研究を開始する。その成果を基盤として2002年には「日本臨床美術協会」を立ち上げ、今日、大きな社会問題となっている認知症などの精神疾患に対して効果的な治療法を提供している。(*)
 さて、浦和造形研究所は現在、子どもの造形教室から大人のための制作指導まで幅広く行う美術造形教室となっている。金子さんはさらに、美大を卒業し美術家を目指すようになった人たちが作品発表できる場を作りたいと考えていた。ギャラリーの開設は、美術のためにさまざまな環境を整備してきた金子さんの最終的な目標だったのだ。
 ところが2007年の11月、目的半ばにして金子さんは逝去する。その意思を継ぎ、翌年の7月、未亡人の清子さんがついにオープンさせたのがこの「ギャラリー健」だった。生前、関わりのあった大勢の人たちによる開廊記念展を皮切りに、研究所の講師たちの展覧会が立て続けに行われた。そして最近は、清子さんの視点で選んだ美術家に展示を依頼しながら、今後はさらにさまざまな人に使ってもらう方法を模索している。
 現在は、美術家の雨海武さんの協力を得て新たな展開を図っている。この画廊の第一の特徴は、何と言っても美術造形教室が経営しているということだ。事業を行うに当たり、講師や生徒たちの力をうまく導引することで大がかりな催しも不可能ではない。また雨海さんは、周辺の文化資源や人的資源を取り込んだ有機的な事業展開も視野に入れているようだ。
 ちなみに「金子健二遺作展Ⅲ」の終了後、9月13日からは「てれどろ特別展」と題して、若手作家たちの企画による実験的な展覧会が行われる。8月15日の平和記念日に、それぞれの人がそれぞれの場所で描いた絵をこの画廊に持ち寄り、一堂に展示するという試みである。美術という言葉を旗印に、ここから何かが動き出す予感がある。

(090710取材)

*「臨床美術」に関する問合せ
株式会社 芸術造形研究所
〒101-0062東京都千代田区神田駿河台2-1 OCCビル7F
電話:03-5282-0210


「二つの扉」ギャラリー・エル・ポエタ、庭園ギャラリー櫻守、9月3日(木)~13日(日)
「井上茉莉子展」ギャラリー・エル・ポエタ、9月22日(火・祝)~27日(日)

 1979年、大宮の氷川神社沿道にギャラリー・エル・ポエタがオープンした。ここを開設したのは、都内の建築事務所で設計の仕事をしていた村田(現・小林)君子さんだった。ちょうど売りに出た物件を購入し、そこを改築して1階を画廊喫茶に、2階を住居にした。これは当時、流行し始めていた建築リノベーションを自ら試みる実験でもあった。
 ギャラリーでは当初から、現代美術作品を展示しようと考えていた。最初に行ったのはエサシトモコさんの個展だった。エサシさんは今、鎌倉住まいだが、当時は大宮市内に住んでいた。彼女の周辺にはなぜか外交的な美術家が多く、このギャラリーにもすぐにたくさんの美術家が集まるようになった。村田さんもまた、ここがそのような場所になることを望んでいた。
 エル・ポエタは、画廊喫茶ではあるが、展示空間と喫茶空間が微妙に分かれているのが特徴だ。壁に絵を掛けるだけでなく、ある程度、その空間を使ったインスタレーション的な展示も可能である。そこで中には、展示空間と喫茶空間を何とかつなげようとする作家も出てくる。
 ふつう美術作品は、画廊や美術館といった無機的な展示空間に飾られることが多い。しかしエル・ポエタでは、空間自体が強烈な個性を持っているため、作品はまずこの空間によって視覚的な洗礼を受けることになる。雰囲気だけの作品ではとうてい太刀打ちできないのだ。その意味でここでは、空間が作品を選んでいると言えるのかもしれない。
 一方で小林文武さんが、贅を凝らした和風住宅を建設し、「庭園ギャラリー櫻守」という名で画廊をオープンしたのは2001年のことだった。小林さんは代々、大宮公園の桜を管理する家柄に生まれた。若いころから美術に親しみ、いつからか作品を買い求めるようになっていた。
 このギャラリーでは最初、川村親光、小川游、塗師祥一郎といった県内の大御所の展覧会を開いていた。しかし、間もなく手詰まりとなり、小林さんは、近所にあったエル・ポエタの村田さんに、企画に関して協力を仰ぐこととなった。
 村田さんはこちらでも、やはりできるだけ現代的な美術作品を紹介するよう努めた。最初は違和感を持っていた小林さんも、そうした作品を見続けるうち、具象画特有の押し付けがましさがなく、かえって心を和ませる抽象画があることを知るようになった。
 最盛期には展覧会だけでなく、井上尭之氏にギター演奏を頼んだり、名だたる神社の神職や巫女さんたちを呼び大がかりな雅楽の演奏会を催したりと、さまざまなイベントも行った。しかしこの経済的な低迷を受け、その賑わいもここ数年は差し控えるようになった。
 現在は作家を厳選し、年に2回ずつ展覧会を開いている。「貸しスペースにするなら閉じておいた方がよい」という言葉に、小林文武さんの文化に対する自負を感じる。ちなみにエル・ポエタの村田さんは、今は姓が小林に変わり、引き続き2つのギャラリーの企画に携わっている。
 ところで9月の前半には、エル・ポエタと櫻守の同時開催で徳永雅之さんと馬場健太郎さんによる「二つの扉」展が、そして後半にはエル・ポエタで井上茉莉子さんによる日本画の展覧会が開かれる。徳永さんはこちらの画廊で何度か展覧会をやっているが、今回は馬場さんとの初めての2人展となる。関連イベントも多く用意されており、中でも櫻守の建物の施工管理者によるレクチャーは、小林文武さんのこだわりを知るうえで貴重な機会となるだろう。

(090715取材)

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