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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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 「創発2009」の一環として、私は住居に近い埼玉県栗橋町で「現代美術展<分岐点>」という展覧会を企画・構成した。そして展覧会終了後、その記録集に、事業の経緯を綴った文章を寄稿した。同実行委員会の事務局長である木村由美子さんの許可を得て、その全文をこのブログに転載させていただくことにした。


 分岐点から始まった分岐点

同じ言葉を適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、―これらの現象は互いに多くの異なったしかたで類似しているのだ(*)

 今日の社会では、大きな力のもとに人々を集結させることが難しくなっている。近代化が進み分業制が確立するにつれ、異なる職業や専門性を持った人々が同じ地域内で共住するようになってきた。そのため、不特定多数の人が話題を共有しにくくなったのだ。そこで今日、個々人の異なる関心事を連携させながら、緩やかな結びつきを持たせるネットワークづくりが注目されるようになっている。
 そう言えば、この展覧会に展示された作品にもそれぞれ異なる表現方法があり、全体をひと括りに語ることは難しかった。しかしそれにもかかわらず、会場には不思議な一体感があった。すべてに貫通する表現志向は見あたらないのだが、作品どうしが個々に引き合いや響き合いを見せ、全体として遊動感のあるまとまりを見せていたのだ。私は、この展示に見られたこうした特長が、今日における人々のつながりを考えるうえで何らかの示唆を与えているような気がした。(つづく)

*ウィトゲンシュタイン全集8「哲学探究」(藤本隆志訳)65節より 

現代美術展<分岐点>開催記録
編集:木村由美子
撮影:木村由美子(本展会場)
   翁譲(一週間シャッターをあける)
   小林晃一(ワークショップ)
発行:2009 年12 月26 日
   現代美術展<分岐点>実行委員会事務局
   〒349-1117 埼玉県北葛飾郡栗橋町南栗橋7-2-9
   電子メール:
bunki-ten@email.plala.or.jp

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<遍在する命>
 これまで見てきたように、「自分を含む特定の範囲の者達の繁栄」は人間にとって根拠のある願望であった。それは代々続く遺伝子の連結からもたらされた、生物としての責務である。しかし一方で、遺伝子は今後も延々と生き延びていく。これから訪れるであろうさまざまな環境の変化の中でヒトの遺伝子を維持していくには、染色体のさらなる多様性を確保することが不可欠である。そしてそのためには、できるだけ構造の異なる遺伝子を持った者どうしの交配が望まれる。
 最後に、高草木さんから次のようなメッセージが届いた。
 「もっと本質的な理由に気づきました。婚姻(子供を設ける)には血縁のなるべく遠い者のほうがよいと言われているからです。近親交配を繰り返せば劣性遺伝子が顕在化して先天性異常の発生率が高くなります。」
 まさにそこなのだ。そのことを人類は経験的に知っていたのである。
 かつて閉じられた共同体では、そこに異なる血を入れるため配偶者を他の共同体から迎えるという習慣があった。併せて族内婚姻は、「血が濃くなる」と言われ避けられた。実際に、近親間の交配は遺伝子障害を起こしやすいらしい。配列差の大きい遺伝子と交配することで種の多様性がもたらされ、そのことで環境の変化に対応しやすくなるのである。
 ここまできてようやく、人がなぜ近親者と同時に遠縁者を大事にしなければならないのか明らかになってきた。近親者は祖先がつなげてきた遺伝子を共有しており、また遠縁者はこれから残していく遺伝子の多様性を保障してくれるからなのだ。近親者は過去を背負い、遠縁者は未来を担っているのである。
 かつて人類は、異なる共同体どうしで接触を持つことがほとんどなかった。接触が必要なときは戦争となり、ときには大規模な殺戮が行われた。異なる共同体の人々を、同じ人間として見なしていないからそれができたのだ。しかし、その発展の過程で共同体の吸収や併合が進み、異民族間でも共通理解の幅が徐々に拡げられてきた。そのひとつの要因は、支配-被支配という身分差を超え、場合によってはモラルを犯して異民族間の交配が行われてきたことにあるのではないか。
 そして今、経済のグローバル化により、近代国家に生きる人々の人口移動はますます加速している。それに伴い国際結婚が促進され、異民族間での合法的な混血が進んで、子孫の遺伝子構造もますます多様化していくに違いない。親族が世界中に散らばり、命が国境を越えてリゾーム状に交差していく時代となる。高草木さんの言葉を借りるなら、「地球の裏側のような地域に住む人々から発せられるいのちのシグナルにも呼応する」「いのちの連携、ネットワーク」が現実化するのである。
 そのとき人々の意識の中では、命の遠近感が地理的な距離を大きく凌駕していると思う。共同体の内と外はもはや対立する関係ではなく、双方の利害を対等に考慮せざるを得なくなっているだろう。人々もまたそれを不合理と感じないはずだ。なぜなら、すでに命は国家や民族を越え世界中に遍在しているのだから。(おわり)


<連続する命>
 そこでもういちど、命はみなつながっていて近親者ほどそのつながりが濃いという前提に戻ってみよう。血縁関係は、近親者から遠縁者へと結びつきの濃淡をもって広がっていく。そして、このように命を一種の連続体として捉える見方は、実は現在では科学的にもしばしば行われるようになっている。
 生物の行動の一義的な目的は、長い間、その固体の保持であると考えられていた。つまり、動物が食物を捕らえたり危険から身を守ったりするのは、自分自身を生かすためなのだ。ところがこの考え方だと、たとえば親が身を呈して子を守るというような利他的な行動についてうまく説明できない。
 そこで遺伝子学者のリチャード・ドーキンスが示したのは、生物の第一の目的は固体の維持ではなく、遺伝子の保持であるというアイデアだった。遺伝子は、地球上に生命が発生したときから少しずつ変化し、多様化しながら今日まで生き続けている。その間に現れては消えていった無数の生体のひとつひとつは、遺伝子を未来につなげていくための乗り物にすぎないというのだ。
 これは生命に対する大きな発想の転換となった。そのことで親子間における利他的行動だけでなく、ミツバチや蟻が兄弟の中の1匹だけに子孫を残させ、他はその援助に回るという行動の意味も説明できるようになった。つまりそれは、一個一個の生体を操りながらできるだけ自分に近いタイプを残していこうとする、遺伝子の戦略だったのである。
 ところでヒンズー教では、アートマンと呼ばれる永遠不滅の魂があり、それが生体の発生と消滅を引き起こす原動力とされている。だから信徒たちにとって、今、生きていることは、次世でよりよく生まれ変わるための修行となる。命というのは一回限りで消えていくものではなく、延々と繰り返す生の明滅を司ってきたひとつの流れなのだ。ちなみにゴータマ・シッダールタは、こうした現象を理論的に解き明かすことで自らをその輪廻から解放しようとした。
 ここで、これまであいまいだった「生命」という語の両義性がおぼろげながら見えてきたのではないか。すなわち「生」とは固体の発生から終焉までの生体維持のことであり、「命」というのは固体を超えて連続していく生体連鎖のことなのだ。言い換えれば、生命活動を空間軸で捉えたのが「生」であり、時間軸で捉えたものが「命」である。前に「近代に入ると、そうした時間軸が忘れ去られ、空間軸のみに焦点が当てられるようになった」と書いたが、冒頭に掲げた「延命治療、臓器移植、尊厳死、自殺、無差別殺人」などの問題もまさにこの「生」に関る側面に他ならない。
 さらにこれを遺伝子レベルで見ると、そこに組み込まれた記号によって生体を維持していく活動が「生」であり、それを別な固体へと再生させていく活動を「命」と言うこともできる。いずれにせよ、こうした東洋的な生命観がドーキンスに大きな示唆を与えたことは想像に難くない。そしてこの発見は、生物学だけでなく現代思想界にも強い影響を及ぼしている。
 さて、そこで再び浮上してくるのは、「自分を含む特定の範囲の者達の繁栄」の問題である。これを超越する、上位の概念をそろそろ示さなければならない。近親者ほど命のつながりが濃いにもかかわらず、なぜつながりの薄い遠縁者の命も私たちは大切にしなければいけないのか。この問いに対し、高草木さんから新たな提案があった。
 「敵の敵は味方だったりするからだと思います。隣りの人とインターフェースをとるために窓を開けます。挨拶を交わし、家の外に出てきて握手します。隣りの人はそのまた隣りの人と同じことをします。そうしてつながっていくと地球を一周してしまいます。/つながりの方向は一ライン、一方向ではなく、各ポイントからその周囲へ向けて多方向へ広がっていきます。そうして世界は無数の節点を持つ網目で覆われます。その節点ひとつひとつが『いのち』です。/温暖化、大気汚染、水質汚染、土壌汚染、砂漠化、水不足、食糧不足、感染症・・・。こうしたことを乗り切る為にいのちの連携、ネットワークが必要で、時に地球の裏側 のような地域に住む人々から発せられるいのちのシグナルにも呼応するようになってきているのだと思います。」ということだった。
 では、「挨拶を交わし、家の外に出てきて握手」するという「節点」がなぜ「いのち」になるのか。それは、「この『節点』は人だから」だという。そして彼女には、「手を結ぶところの理念の根底となるのが『いのち』だ」という直感がある。
 命をつなぐというのは、言い換えれば生殖することである。長い歴史の中で人類は、異なる共同体の人間を迎え入れながら生殖活動を行ってきた。場合によっては言葉も通じない者どうしが、何によってその関係を維持してきたのか。それは言うまでもなく、生殖行為を通して培われる愛の力である。愛という習慣は、厳しい環境変化の中で人類が自然適応を繰り返しながら身に付けた、遺伝子保存のための戦略だったのではないか。
 余談だが、「誰々命」という言葉があった。かつて、愛し合った男女が将来を約して腕に彫り込んだ文字である。それは、ともに子孫を残そうという、互いの遺伝子に果たした誓いだったのかもしれない。(つづく)

<孤立する命>
 そもそも「自分を含む特定の範囲の者達の繁栄」を目指すと言ったとき、その「特定の範囲」とは誰を指すのか。身近なところで考えれば、遠くのものより近くのものが大事という感覚がある。つまり、その1点を一言でひっくり返すような黄金律があればよいのだ。「世界が100人の村だったら」なども大いに参考となる。一種のトリックではあるが、アートにはそういう見方を提示する力があると思う。
 これについて高草木さんから、「自分は『いのち・連携』ということで芽がぐんと伸びたしわしわのジャガイモ描いてます」という自作についてのコメントがあった。
 「深い皺をたたえ、よぼよぼのジャガイモは土も水分もない状況で太く長い芽を伸ばしています。芽はひとつのものもあれば5つほどのもあります。既に芽の長さはジャガイモの直径の3~5倍の長さになっていて芽からは小さな根がのぞいています。先端には丸まった小さな葉もついています。劣悪な環境下で持てる限りの力を振り絞って次世代にいのちのバトンを渡そうとしているのです。滅びんとする姿と新しいいのちの姿が同居しているのを見ていのちの甦生、連携を感じました。」という。
 塊茎植物であるジャガイモの場合、「滅びんとする姿と新しいいのちの姿」は個々に独立した存在ではなく、視覚的にも連続している。しかしそれは、実は人間でも同じなのだ。今という空間軸で見れば、たしかに人は自立して存在しているように見える。しかし時間軸で見たとき、それぞれの過去はすべて母親の胎内へとつながっている。
 昔の人々は、そのことを直感的に知っていたのではないか。血縁者は単なる身近な人ではなく、それを超えた切るに切れない何かがある。だからこそ人々は、「自分を含む特定の範囲の者達の繁栄」を目指してきたのだ。そのことをジャガイモの姿は象徴的に示している。
 ところが近代に入ると、そうした時間軸が忘れ去られ、空間軸にのみ焦点が当てられるようになった。ひとりひとりが別の命を持っており、人が死ぬとその命も消える(だから個々の命を大事にしよう)という唯物論的な見方である。特に胎生動物の場合、子は親と同じような体形で人々の前に現れるので、その説に対する通俗的な信頼も高まる。そしてこの考え方が、近代的自我の発達に大きく貢献することとなる。
 その結果、命に対する人々の直感とこうした科学的理解とのずれが、今日、さまざまな社会の歪みを生むようになったように思われる。エレメント・ブックに参加した高橋さんや本多真理子さんが指摘した疑問も、このような価値観の齟齬から派生していたのではないか。
 たとえば高橋さんは、「人は人をなぜ殺してはいけないか」ということを問いかける。それを「子供に判るくらい簡単に」作品で示そうというのだ。これを見たとき、私はむしろ「人はなぜ生きなければいけないのか」という問いにこそ普遍性があるように思えた。しかし一方で、「なぜ生きなければならないか」は自問なので議論されることが少ないのに対し、「なぜ殺してはいけないか」は他者に向けて投げかけやすいのも事実だ。この質問はあくまでも、子どものそうした率直な問いかけにいかに向き合うかが主旨であることを理解した。
 そこで高橋さんは、「自ら手をくだして殺人に及ぶことまでは考えないにしても、言葉で追いつめ自ら死を選ばせるのは間接的に殺人願望を満たしているようにも思えます」と言う。要するにこの問いの根底にあるのは、殺人行為というより、人が本性的に持つ「殺人願望」への問題提起でもあったのである。
 殺人願望と言われると、人は一瞬とまどうかもしれない。ふだん意識していない分、それは人間の心理の深いところにあるのだ。生まれることと死ぬことは、人類が発生したときからの最大の関心事だった。自他の関係が未分化な原始共同体にあって、他者の死は、自らの身体(または意識)の一部の消失として受け止められていたに違いない。そこで命は、近親者ほど強いつながりを持つ連続体として受け止められていたのだと思う。それは前述したとおりである。
 自分にとって大切な部分が消失することを惜しむ。その感覚は現代人も同様に抱えていて、肉親の死を自己の外側のできごととして完全に相対化することはできない。そうした想いは人間である以上、失ってはいけないものだと思う。そしてその対極には、死(不都合な部分の消失)を望むという反動的な心理があり、それらは補完的に両立している。これもまた、合理的に割り切ることのできない命の遠近感だろう。
 一方で本多さんは、「死に方の選べない国でなぜ生きなければならないか」、要するに安楽死の問題を提起した。そして「最低限ヒトであるべき識閾で時を閉じたい」と、これを時間の問題と重ねていく。
 私は、時間には、宇宙空間に流れる物理的時間、循環する生物的時間、それに個々の意識の中に流れる心理的時間があると考えている。この中の生物的時間は、生物の個体維持活動と並行して流れており、医学はそれをできるだけ延長させることを目指してきた。また心理的時間は、個々人が眼前に広がる事象と意識的に関ることによって進行する。だから意識が薄くなると、この位相の時間は停滞してくる。
 この分け方に従うと本多さんの主旨は、生物的時間をむやみに伸ばすのではなく、むしろ心理的時間の衰退を死の進行として認識したいということのように思える。高橋さんや本多さんのこうした問題提起はいずれも、人の存在が関係の中で成立していることと、唯物論に基づく科学的な生命理解のずれから生じているように思えた。(つづく)


<命の遠近>
 まず初めにelement代表の高草木裕子さんから、エレメント・ブックのテーマを「いのち」とすることについて次のような趣旨説明があった。
 「elementの趣旨文(会の目的)にある『本会はいのちについて考え、主張できる個々を目指す』について具体的に取り組めたら、と思います。社会のさまざまな問題は辿っていけばいのちの問題(尊厳)にいきつくのではないでしょうか。」
 そしてそこには、「人間の社会では力のあるものは社会により適合し優位に立とうとしますし、さらに自らに都合のよいようしくみを変形させてきたりもしました。それは自分を含む特定の範囲の者達の繁栄を目的としています。そうしたことの総体が現在の社会です。ですから社会の問題はいのちの問題につながっています。/ちょっと向きを変えますと大地震の被災者を救助できないのに体面にこだわり(?)救援を拒んだ中国の軍隊は非難されてしかるべきでしょうし、いのちの尊厳を思ったら戦争のできる道理はないということになります。」という説明が加えられた。
 人間は本性的に、他人より身内を大事にするものだ。「自分を含む特定の範囲の者達の繁栄」を目指せば、それ以外の人々の命は軽いものとみなされ、その結果、戦争という集団どうしの殺傷が起こる。そこには他の生物にない、命の軽重に対する人類特有の識別能力が働いているというのである。
 しかしそれにしても、そのことと最後にある「いのちの尊厳を思ったら戦争のできる道理はない」という言葉の間には飛躍がありすぎる。人類はなぜ、「自分を含む特定の範囲の者達の繁栄」を求めるのか。そしてなぜ、その外側の者を排除するのか。これを説明するには、人の意識の中で命の価値に軽重の差が生じる理由を明らかにしなければならない。そのことで初めて、こうした集団間の断絶を超える、もうひとつ上位の概念が導き出せるのではないか。
 間もなく、高草木さんから改めて、「持てる力をすべて出し切って戦争をしたら最後自らを滅ぼす事につながる」「世界全体で利益をシェアするしくみがうまく成り立った場合には特定がすなわち全体というわけですから、戦争ももう起きません。」という説明が加えられた。
 これは極めて明快な言い方である。腹が減っては戦はできぬ。しかし戦をすると腹が減る。それがわかれば戦はしないという論理だ。そういえば黄金律というのがあった。「自分がされたくないことを人にするな」といったようなものだ。固定化した価値観を反転させることで、利害の対立を一気に解消してしまうような発想法のことである。しかしこと戦争に関しては、この論法には無理がある。
 最終戦争は自らを滅ぼすという理屈は理解できる。だが、個々の視点からはそこまで達観できないのが現実だ。ときには、全滅してでも戦わなければならないと考えることさえある。だからこそ人類は、何度でも戦争を繰り返してきた。そうではなくて、なぜ人はそのような極視的なものの見方に陥るのかが問題なのだ。
 また、「世界全体で利益をシェアするしくみ」を模索することは必要だと思う。しかしそもそも資源の価値自体が一定でなく常に変動しており、さらに地域ごとに求められるものが異なる。世界中の資源情報を日々集計し、流通をコントロールしていくのはまさに至難の技だ。社会主義国家の崩壊は、それが現実的に不可能だったことを物語っている。(つづく)
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