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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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 近藤さんからの提案を受け、8月末に絵画作品の出品者を集めて展示方法について話し合いを持つことになった。そこで平面作品に関しては、渡り廊下からワイヤーで吊り、床に錘を置いて固定する、垂木を組んで絵を掛けるなどの方法で展示することが合意された。
 9月12日、小雨の降る中で「現代美術展<分岐点>」の飾り付け作業は行われた。木村さんが現場監督となり、いつものように根本民穂さんが助手で来てくれた。鈴木さんの木枠の組立てが多少難儀したが、作業は比較的スムーズに進んだ。そして午後1時半ごろ、杉戸での飾り付けを終えた翁さんが到着して作品を並べ終えたところで、ぴったり2時の開場となった。
 体育館というのは日常空間にも増して、それぞれの部分に具体的な機能を宿している。その分、見る者の目を作品の中に自然に引き込んではくれない。非常扉や床のライン等、周囲に点在する夾雑物を常に意識しながら作品を鑑賞しなければならない。ここでは観客に、美術館やギャラリーとはまったく違った集中力が求められる。
 しかし一方で、冒頭で述べたように、この会場には別の位相で不思議な一体感がもたらされていると感じられたのも事実だった。すべてに共通する要素はないのだが、作品がそれぞれに一対一関係を保ちながら、その共有部分によって全体を緩やかにつなげていたのである。
 たとえば、入ってすぐのところにある近藤さんの絵は、作者が画面と向き合った時間を留め、その奥にある鈴木さんの絵は作者が生活の中で出会ったできごとを記録していく。いずれも、画面の中に散見される具体的なイメージを拠り所として、制作課程における時間の推移を追うことができる。
 中央の小林さんの石彫は植物と人の姿を融合させ、その背景にある野原さんの絵は原生動物のような形態を様式化させる。そこにはともに、有機的な形態のバリエーションが響き合っていた。
 小高さんの作品の少女は高く伸びる脊柱と向き合って何事かを語り、高津さんの人物が携える物品には極めて個人的な意味が込められているように見える。それらの作品からは、人物とそれ以外のものの対比からさまざまな物語が紡ぎ出される。
 さらに、構成要素を分散させて展示空間に溶け込ませる翁さんと鈴木さん、色彩に象徴性を盛り込む近藤さんと野原さん、動植物を擬人化させる小林さんや高津さんといったように、ひとつの作品から次の作品へと目を移すたびごとに、あたかもしりとり遊びのように新たな関係性が立ち現れてきたのである。(つづく)

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<展示作品>
 私が展覧会を企画するときには、事前に出品者どうしで集まり、自らの作品の変遷についてそれぞれがプレゼンテーショするということを原則にしている。互いの作品についてより深く理解したうえで展示に望んでもらうためである。今回は7月18日から19日にかけて、伊奈町にある県の活動総合センターで泊りがけの研修会を行った。出品者の発言要旨はおよそ次のとおりであった。
 翁さんは人の形態を手がかりに木や金属などを用いて制作してきた。今回の展示では鉄板と木の造形物を組み合わせた作品を提示する。野原さんは、有機的な形態により抽象的な色彩と形態を構成する。3点の作品を連作のような形で展示するそうだ。ともに有機的な形がその基盤に見られる。
 小高さんは石を用いて生命の連鎖を表現している。今回は人体像と塔のような形態を対峙させる。やはり石を用いて生命感のある形態を生み出すのが小林さんだ。昨年の個展で発表した植物のシリーズを展示する予定だ。生命をそれぞれ別の角度から照射している。
 鈴木さんは、日常生活の中で印象に残った事物を巨大な画面の中に記録していく。新作を出すか旧作にするかまだ迷っている。そして象徴性を持った事物の構成により、ある物語性を生み出すのが高津さんの絵画。会場の特性を活かして、これまで描いた中で最も大きな作品を展示するという。いずれも作品の中に読み取りの要素が込められる。
 近藤さんは、職場の仕事が抜けられず合宿には参加できなかったが、椅子や家の形を手がかりとして、自らの内から湧き出る色彩や筆触を重層的に描き留めてきた画家である。本展には旧作を出品すると言っていた。近藤さんが重視する時間的要素は、すべての出品者が異なる視点でアプローチしているように思えた。
 いずれの出品者の作品も、そこに込められた内容を一言で語ることはできない。しかし作品を2人ずつ見比べたとき、どこかに必ず通じ合う要素が見えてくるのだ。このプレゼンテーションを通して、今回の出品者たちは、それぞれ共通性と相違性を緩やかに併せ持った美術家であることが見えてきた。
 8月に入ると、それぞれの出品作品が徐々にはっきりしてきた。それに伴い、作品の配置を具体化しなければならなかった。近藤さんは当初から、体育館という特殊な場所での展示に懸念を示していた。立体作品はある
程度、周囲の状況との関わりで見ることができるが、絵画の場合は展示場所に強く影響される。そのため、出品者ごとに展示方法のバラつきがあるとさらに統一感を崩してしまうため、できるだけよい形で見せられる条件整備をしたかったのだ。(つづく)

<協力体制>
 展覧会の全体像ができあがり、次は事業を盛り上げるための協力者集めである。地方での展覧会を成果のあるものとするには、地元の人にできるだけ事業に関わってもらうことが不可欠だ。
 まずこの事業は私たちの実行委員会が主催し、栗橋町の教育委員会の後援を得て実施されることになった。教育委員会は単なる名義後援を超え、生涯学習課が窓口となって展覧会場や会議室の提供、複写機、プリンター等の使用、町報での告知などで便宜を図ってくれた。
 ところで小高さんは、彫刻を作る傍ら栗橋の定福院というお寺で副住職をしている。ちなみにそこは、当代の住職さんの主導でしばらく前から檀家さんたちが石で羅漢像を彫り始め、今ではそれが700体を超えている。11月の初め、境内に所狭しと並んだ羅漢像の前に灯籠を立てて拝観する羅漢祭りは、町外からもたくさんの参拝客が訪れるイベントとなっている。こうした小高さんの立場は、この展覧会の協力者集めに大いに役立った。
 まず小高さんの関係で、久喜市議会議員の井上忠昭さんがこの催しに関心を持っていることを知った。栗橋町の教育委員会はすでに後援となることが決まっていたが、井上さんの仲介で埼玉県教育委員会からの後援も取れることになった。また久喜の市立学校の校長会にも紹介してくれ、このことは来年行われる栗橋町と久喜市の合併を視野に入れた展開の布石となった。
 また小高さんの口利きで栗橋町の商工会から協賛金をいただき、看板の材料費として使わせていただいた。さらに、たまたま小高さんといっしょに立ち寄った井上酒店でこの展覧会の話をしたところ、店主自ら「協賛するよ!」と申し出てくれ、オープニング・セレモニーの飲み物をお世話になった。
 協力者集めに関しては、教育委員会の柿沼さんも尽力してくれた。読売新聞は、埼玉県内の地域ごとに支部を置いており、この近辺を受け持っているのが「埼東よみうり」である。担当の川島勝子さんは、かつてからこの地域の文化情報を積極的に発信してきた人だ。柿沼さんから知らせを受けた川島さんは、この展覧会の準備の段階から報道したいということで継続的に取材してくれた。
 取材といえば、栗橋町文化協会の広報担当の人たちも熱心に話を聞いてくれた。会報で大きく取り上げてくれ、さらに文化協会のすべての会員に展覧会のチラシを送っていただいた。さらに栗橋駅前の居酒屋「のまっしょ元」では、本展のチラシ持参者にドリンクをサービスするという協力企画を打ち出してくれた。その他、会期中には何人かの方から心温まる差し入れやお祝い金をいただき、苦しい資金繰りを助けてもらった。
 そして何より、このような催しでいちばんありがたいのは、会場の受付などをやっていただくボランティアの人たちの協力である。これもやはり柿沼さんにお願いして、栗橋町のいきがい教室や女性セミナー、歌声サークルの受講者たちに呼びかける機会を設けてもらった。一方で川島さんは、こちらからお願いするまでもなく「埼東よみうり」の紙面上でボランティアの募集をかけてくれた。
 こうしたさまざまな方面からの声がけにより、最終的に19名の方々がボランティアとして参加してくれることになった。見慣れぬ現代美術作品に最初はとまどいぎみだったが、事務局の木村さんの熱心な働きかけにより、それぞれ自分なりの楽しみ方を見つけてくれたようだった。会場の受付には1日3組2人ずつ交代で当たり、最
終的に600名ほどとなった来場者への対応をこなしてくれた。(つづく)



 次は肝心の出品者だが、県東北部に在住し、現代美術系の画廊で定期的に個展を開いている美術家はそれほど多くない。教育委員会との初会合のときには、すでに私の中で腹案ができていた。
 候補となった10人の美術家に声をかけ、会場の下見を兼ねて2月21日に初めてのミーティングを開いた。私が示した案に対し、会場がよくない、展覧会の趣旨がわからない、展覧会の枠組みはみんなで決めるべきだ等、さまざまな意見が出され、その日は方向も見えないまま飲み会になだれ込んだ。
 その後も月1回ずつのミーティングを持ちながら、候補者たちと意見の擦り合わせを行った。そして言うまでもなく、ミーティングの後はとにかく酒を飲むということを繰り返した。焦点が絞れぬままに時が過ぎ、この混沌とした集りにひとつの流れを作ったのは、あるとき小林晃一さんが放った「会場にはぜんぜん魅力ないけど、ここから始めればいいんじゃないの?」という一言だった。
 当初は、体育館に限定するのではなく校庭やプールも使えないかという案があったが、その話はいつか断ち消えていた。その代わり翁譲さんから、自分が住んでいる杉戸町で独自に展覧会を開きたいという案が出された。杉戸町民の最寄り駅である東武動物公園駅前には古くから商店街があるが、店を営む人の顔にいまいち活気がなく、最近ではシャッターも降り始めている。そこで駅周辺の商店などに呼びかけ、自分の作品を1週間、飾ってもらうことにしたのだそうだ。
 翁さんはこの頃、杉戸に住み始めてまだ数か月しか経っていなかった。その分、そうした町の状況が強く目に焼き付いたのだろう。私はまさに、メンバーからの発案によるこうした展開を望んでいたので、翁さんの活動を栗橋の展示と一環した事業として位置づけてもらうことにした。
 それにしても、展覧会のタイトルがまだ決まっていなかった。「埼葛現代美術展」という仮題を付けてはみたものの、「埼葛」という言葉がよその人にはわからないだろう(*)。飲み会の席で何が展覧会の狙いなのか問いつめられ、苦し紛れに私が「今はこう…道が分かれていく時代なんですよ」と答えると、すかざす翁さんが「そりゃ分岐点だ!」と応じてくれた。そこで一気にタイトルが決定した。飲み会も決して無駄にはならないものだ。
 そうこうするうち、9月に展覧会が重なるという理由で3人の候補者が抜け、翁譲、小高一民、小林晃一、近藤昌美、鈴木るり子、高津美絵、野原一郎の7名が最終的な出品者として決定した。こうして対外的な広報活動や協力依頼がようやく行えるようになったのは、5月も末のことだった。(つづく)

*埼玉県の中で、旧下総国葛飾郡に属する地域(県東部)を「埼葛」と呼んでいる。

 <経緯>
 この展覧会は「創発2009」の参加企画として実施された。「創発2009」は、9月に埼玉県内で行われる現代美術展を紹介するプロジェクトで、「さいたま美術展<創発>プロジェクト」の2009年の事業として位置づけられた。2008年の初回はインターネット上で展開し、2009年はマップを印刷して県内で広く配布された。
 以前からこの時期に行われていた「国際野外の表現展」や「所沢ビエンナーレ」に加え、県内の画廊や現代美術家に9月に展覧会を実施するよう働きかけが行われた。その結果、県南部を中心に、中部、西部、北部とそれぞれ賛同してくれる人たちが現れたのだが、県東部地域だけはまったく開催の目処が立たなかった。そこで、このプロジェクトの首謀者である私自身が呼びかけ、私の住む鷲宮町周辺で展覧会を組織する準備を開始したのだった。
 まず初めは会場選びだった。できるだけ駅の近くで展示に使える場所がないか探した。周辺地域の地図を見ていたところ、栗橋駅前に「いきいき活動センターしずか館」という公共施設があることを知った。そこで、以前から面識のあった栗橋町在住の彫刻家の小高一民さんと会い、その可能性について打診してみた。
 小高さんは、しずか館の2階には町史編纂質がありそこで奥さんが働いていることや、町の教育委員会には柿沼勇夫さんという人がいて文化活動を熱心に行っていることなどの情報を提供してくれた。それを聞いたとき私は、これはいけると直感した。
 できる限り協力するという約束を小高さんから取り付け、併せて栗橋在住で県立近代美術館のガイド・ボランティアをやっている木村由美子さんの協力も得られることになった。木村さんにはこれまでも、私の企画した展覧会の助手をお願いしてきた経緯があり、展覧会の進め方もよくわかっているので心強い。
 そこでまず、小高さんに教育委員会との中継ぎをしてもらい、2009年2月16日、教育次長である柿沼さん、それに窓口となる生涯学習課の大塚徳一さんや岡田宣久さんと、栗橋町総合文化会館イリスで初めての打ち
合わせを行った。このとき、私たちが持ち込んだ企画に対し柿沼さんが手放しで乗ってきてくれたことも驚きだったが、さらに篠原有司男や赤瀬川源平などの名を挙げ1960年代の日本の前衛運動について熱く語り始めたときには、ただ呆気に取られて話を聞いている他なかった。(つづく)
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