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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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 「創発2009」に参加した「いのちを見つめる」展に、私はその準備段階から付き添ってきた。その間に命についていろいろと考える機会を得、そのことを同展の記録集に寄稿させてもらった。同展を主催したelementの代表である高草木裕子さんの許可を得て、その文章をここに転載させてもらうことにした。


 近くの命と遠くの命-「いのちを見つめる」展に付き添って

 今、生命の問題が静かにクローズアップされている。延命治療、臓器移植、尊厳死、自殺、無差別殺人等々。生命の意味が細分化され、ひとつの総体として見えにくくなり、その一側面をもって全体を判断しなければならなくなっているのだ。今回の「いのちを見つめる」展は、こうした複雑化した命の問題に対し、美術家が何を示せるのかを問う試みであった。
 この展覧会はelementという美術家のグループによって行われた。element会則の趣旨文には、「いのち」について考えることを目的としていることが明記されている。これまで行ってきたさまざまな催しも、それを少しずつ解きほぐしていくための手順だったのだろう。そして今回、改めて真正面からこの「いのち」というテーマと向き合うことになった。
 直接のきっかけはこの前年、「いのち」をテーマとするアーティスト・ブックを作ったことだった。高橋理加さんから「なぜ人を殺してはいけないか」という重い課題が与えられ、それに対して個々のメンバーが言葉や造形で表現に取り組んだのだ。この実践は、それぞれが命という問題と真剣に向き合うための心の準備となったようだ。
 アーティスト・ブックの制作にあたり、elementのメーリング・リストを使ってこのテーマに関するブレイン・ストーミングが行われた。私もそこに参加し、命についてさまざまに想いを巡らす機会を得た。そのとき考えたことについて、ここで自分なりにまとめてみようと思う。(つづく)


『「いのちを見つめる」展記録集』
発行:element(エレメント)
362-0003上尾市菅谷4-43
電話:048-772-3623
2009年10月31日

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 天王洲セントラルタワー1Fアートホールにおいて、2009年11月6日(金)まで田中毅さんの展覧会が開かれている。その会場での配布資料に、私の書いた紹介文を掲載していただいた。田中毅さんは埼玉県川越市在住の彫刻家なので、同展の企画者である田村熠子さんに許可をいただき、このブログに転載させてもらうことにした。


そこに行けば、また会えるよね

 今日の美術は、造形の持つ複合的な要素をことごとく分解し、表現をその断片にまで細分化して展開してきた。それと同様に私たちを取り巻く実社会もまた、諸々の事象が何の関連もなくバラバラに動いているように見える。そうした中で個人は、そのいずれの部分にも無条件の信頼を置くことができず、常に漂泊感に晒されながら生きている。

 田中毅さんは1951年、宮崎県宮崎市に生まれた。高校を卒業後、美術大学受験のため東京の予備校に入学した。夏休みの帰省途中、かつてから見たいと思っていた磨崖仏を散策するため国東半島に立ち寄った。しかしそこで深く心に残ったのは、仰々しく掘り込まれた磨崖仏よりも、田んぼのそこかしこに点在していたお地蔵さんのような石仏の姿だった。
 それらはタノカンサァ(田の神さん)と呼ばれ、現在も九州各地に点在している。おどけた顔をしたものやふがいなさげに佇むものと、その表情は人間味に満ちている。実のところこれらには、田の神様でありながら豊作をもたらす力がそれほどないことをみな昔から知っていたらしい。それにもかかわらずそこを通る村人は、その前で当たり前のように手を合わせていくのだ。
 田中さんは1977年に東京藝術大学大学院の彫刻専攻を終了した。当時の美術の世界では、概念を重視した抽象的な表現スタイルが台頭していた。美術作品の構成要素を事細かに分析し、そのエッセンスを取り出して記号化していくのだ。そのことで表現にまつわる情緒的な部分をできるだけ消してゆこうと、多くの先鋭的な美術家たちは躍起になっていた。
 しかし田中さんは、こうした動向とまったく違う方向を目指したいと考えた。人が造形するということは、それをしなければ生きていけなくなるような、何か根源的な欲求があるはずだ。それを探すためには、コンセプト云々ではなく、見る人によって多様な捉え方のできる表現を模索するべきではないかという直感があった。そこで円空やホアン・ミロを思わせる、人の心に分け入っていくような半抽象的な石彫の制作を開始したのだった。
 1980年代に入り、岩手県の沼宮内で行われた彫刻シンポジウムに参加する機会を得た。そこで鈴木正治さんという青森の美術家に出会う。鈴木さんは、他者からの施しだけで生きているこの時代には稀有な人物で、その生き方はしばしば仙人に例えられていた。夜、参加者たちが酒を飲んで騒いでいるときも、鈴木さんはひとり片隅で黙々と木っ端を削っているのだ。そのとき田中さんは、この人はすべて芸術のために生きていると思った。
 鈴木さんが作る作品は誰のものでもない。誰かに喜んでもらえるならそれはそれでありがたいことだが、本人はただ作りたいから作っているだけなのだ。だからこそその作品には、どんな人にも分け隔てなく受け入れられる強烈な浸透力があった。芸術とは、このような代償を求めない愛の行為だったのではないか。このとき田中さんの中で、鈴木さんの姿とあのタノカンサァが重なっていたことは充分に想像できる。
 1985年、田中さんは、「中国の詩人たち」と題した3体の郡像を完成させた。上部はただ四角形で目も鼻もない。中央の襞は上着にも見えるし抽象的な模様にも見える。しかし上部と中央部と下部の関係は、いかにも人間の形そのものだ。見る者の経験に応じてさまざまな解釈をもたらすこの力作は、神戸具象彫刻大賞展で大賞を受賞した。
 田中さんはさらに、生き物のような構造を持つ形態を繰り返し作っていった。少しずつだが、形のバリエーションだけで作品を見せられる自信がついてきた。そしてあるとき、作品に2つの目を入れてみた。するとそこには、得体の知れぬ不可思議な生き物の姿が立ち現れた。
 抽象的な形態の上に穿たれた2つの目、それらがじっとこちらを見ている。その表情には奇妙なあいらしさがある。だがそれは、私たちが見馴れた生き物たちの愛嬌のあるあいらしさではない。むしろ朴訥で畸形的ですらある。そしてその分、私たちを見つめる眼差しはよけいに真摯さをもって訴えかけてくる。
 別に何かを与えてくれるわけではない。しかしたとえこちらがその存在を忘れても、それらはたぶんずっとこちらを見続けているに違いない。私たちの中にはいつか、そこに行けばまたあの眼差しに会えるという、一種の心の拠り所のようなものが芽生え始める。

  「置き去りにされるという感覚が甘えの心理を前提としていることは明らかである。幼児は母親に置き去りにされたとき、生命的な不安を感じる。そしてそれこそ現代人が人間疎外という言葉で表現する感覚の実態であると考えられるのである。」(*)
 たしかに私たちは、周囲から見守られているという安心感によって見知らぬ世界へと旅立つことができた。どこかでつながっているという思いから、他者と心おきなく競い合うこともできた。人間のそうした無言の連結を象徴的に示していたのが、あのタノカンサァという造形の本質だったのではないか。そう見ると田中さんの作品は、かつて人々の心の拠り所となっていた場を、私たちの身近なところで密かに再生させているように思えてくるのだ。

*土居健郎『甘えの構造』より

田中毅石彫展「ブルーアイランドのかおり」配布資料より転載

田中毅石彫展「ブルーアイランドのかおり」
会場:天王洲セントラルタワー1F アートホール
会期:10月5日(月) - 11月6日(金)
会場時間:8:30-20:00 土・日・祝日休館
住所:140-0002東京都品川区東品川2-2-24
電話:03-5462-8811
URL:
http://www.e-tennoz.com/arthall/index.html

 

「見沼の見!2009-直視せよ!-」GREEN ART TEAM、9月30日(水)~10月4日(日)

 GREEN ART TEAMという一風変わった名前のギャラリーがある。桑山大慶さん、塚本修央さん、加藤丈史さんたちとともにここを運営しているのは、美術家の雨海武さんだ。雨海さんもまた珍しい経歴を持っている。最初は芸大の油絵科で作品を制作していたのだが、いつからかそれを売って、人々に飾ってもらうことに関心を持つようになった。
 卒業後、青山にあるギャラリー・スピカで、「雨海商店」と題した展覧会を何回か行った。画廊を商店に見立て、知り合いの美術家から借りてきた作品を会場に展示し、手ごろな値段をつけて販売するのだ。外見はふつうのグループ展であるが、雨海さんとしてはその商店自体を自分の作品として提示しようとしたのである。
 このような実験を通して、やがて実際にギャラリーの企画運営へと入っていくことになる。現在はGREEN ART TAEMの運営を行う傍ら、さまざまなイベントの企画も行っている。たとえば港区の汐留地区街づくり連合協議会が主催する「GO! SHIODOME ジャンボリー」では、「Tokyo Art  汐留派」というパートをプロデュースしている。
 GREEN ART TEAMは、実は初めGREEN TEAMという名のエコロジーショップだった。その2階を使い、雨海さんがGREEN ART TEAMという美術教室を開くようになった。運営方法はすべて雨海さんに任されたが、店のオーナーが唯一求めたのは、近所に住む老人や子どもたちの笑顔を見せてほしいということだった。
 ところが2003年、本体であったGREEN TEAMの移転に伴い、以降、雨海さんは全室の運営を任されることとなる。急に大きな空間を与えられ多少の戸惑いはあったが、それが杞憂であったことはすぐにわかった。それまで2階で窮屈そうに描いていた人たちが、水を得た魚のように1階の会場で大作の制作に挑戦し始めたのである。
 通常、GREEN ART TEAMは美術教室として使われている。美術教室といっても全面ガラス張りの吹き抜け空間で規模が違う。だからそこで制作する作品のスケールもまた違う。近所の婦人やリタイヤ組みの男性が、ふつうの顔をして100号級の絵を描いている。そして、その合間を縫うように展覧会が行われている。
 当初は教室の生徒の作品展が中心だったが、間もなくそこに雨海さんの企画による展覧会が加わるようになった。自由に使える宣伝費はなく、口コミだけが頼りだ。展覧会自体が、この場所を知ってもらうために始めたようなものだった。
 エコロジーショップという出自を意識してか、やはり環境との関わりを忍ばせたテーマが多いようだ。すでに5回目となる「安行百花展」や3回目の「日本の画展」など、現在は年に4回ずつ企画展を行っている。
 9月にはここで「見沼の見!」が開かれる。川口周辺に在住する美術家たちによる展覧会で、今年で4回目となる。初め、美術室と理科室を併せたような展示を目指して企画された。見沼の地層を描いた絵などはその模範的な作例だったが、芝川のナマの魚が持ち込まれたときはさすがに驚いた。
 今回の案内状に写っている魚が、まさにこのときの展示物である。60センチもある鯉は相当に威勢がよく、展示中、何度も水槽から飛び出したためついに川へと帰され、途中から小さめの魚に代えられたそうだ。芝川の魚は意外に逞しかった。
 今回は16人の美術家が出品する。過去にこの会場で展示したことのある作家に加え、初めての参加者が5人いる。それぞれ1坪ずつスペースが与えられ、「見沼」という言葉からイメージして作られた作品を持ってくるというのがルールだ。
 見沼という名は見沼田んぼに由来する。それが示す地域は意外と広く、川口市の北端から浦和を突き抜け、大宮の北端にまで至る。東京に隣接した一帯でありながら県条例等により宅地化が抑えられたため、昔ながらの田園風景がそのまま残されている。こういう場所だからこそできるアートの可能性を探ってみたい。いつものように前向きな口調で雨海さんは答えた。

(090710取材)


「橋本真之展」ギャラリー緑隣館、9月21日(月・祝)~27日(日)

 橋本真之さんは、代々、上尾駅近くに居を構える家に生まれた。ところがその土地は、周辺の数件の家とともに上尾市の共同開発事業区域指定を受け、マンションの建設予定地とすることになった。そして1997年、この工事の完了に伴って、マンションの住居と道路に面した1階部分が橋本家の所有となった。
 橋本さんの父は書家だった。父の提案により、そこを書道教室兼ギャラリーにすることになった。ところが、ここが完成して間もなく父は他界する。そこで書道教室の壁を取り払い、全室をギャラリーとして使用するようになった。
 橋本さんは一貫して、鍛金による制作を続けている美術家だ。ここでの個展は今回で3度目となる。このギャラリーを開設するとき、立体作品の展示も想定して窓の大きな明るい外光の入る空間にした。緑地の樹木を眺めながらゆっくり作品を鑑賞できるつくりだ。
 鍛造で成形され引き伸ばされた作品は、途中で分断され、また違った形で増殖していく。それらが室内と樹木の間を行き来しながら、自在に形を変化さていくのだ。ひかわ幼稚園やアッピー通りのコープ愛宕等、周辺にも枝分かれした作品が置かれているので、ここを訪ねた折にはそれらを見て歩くのもよい。ちなみに上尾市役所まで行けば、多田美波さんや清水九兵衛さんなどの作品を見ることができる。
 周辺の住民は橋本さんの顔なじみだ。ここを訪ねた日、地域の祭で使った資材が一時的にギャラリーに保管されていた。近所づきあいもそれなりにこなしているのだろう。しかし橋本さんは、こうしたふだんの生活と作品の制作活動とは明確に区別しているという。作品制作は、日常と密接に結びついてはいるが、日常とは明らかに異なるいわばその上澄み的な存在なのである。
 一方で美術に関ることでは、近隣の美術家とも連携を取ってきた。上尾市の美術家協会に参加し、かつては美術館の建設運動に参加したこともあった。橋本さんはこれまで、都内を主な作品の発表場所としてきたが、経済情勢の変化でそれも減りつつある。これからはおそらく、県内での発表の機会もさらに増えてくるだろう。
 美術にとって埼玉の最大の弱点は、批評活動があまりに少ないことだと橋本さんは言う。批評する人がいなければ、美術家どうしで互いに批評をするしかない。現在、ここは貸しギャラリーとして機能しているが、使用頻度は月に1回程度である。運営はたいへんだと思うが、近隣の美術家たちが互いに批評し合える場として、今後もこのスペースを維持していってほしいと願う。

(090722取材)


「2009. Autumn. DAIMON.(消地)」武蔵野線東川口駅北口東側高台造成地、9月1日(火)~20日(日)

 さいたま市では現在、「さいたま市区画整理協会」という財団法人が主体となり、市内の数か所で土地区画整理事業が進められている。この法人は市が地権者を集めて設立したもので、行政と市民が土地の利用について共に考え、区画整理事業を円滑に進めることを目的としている。
 同協会の前身は、1972年に設立された「浦和市土地区画整理協会」だった。ところがこの事業は遅々として進まず、そのうち大宮との合併が行われ、名称が変更されて現在に至る。市も地権者も、これらの土地ができるだけ早く整備されることを待ち望んでいる。
 さて、浦和市の南東の端に位置するJR武蔵野線東川口駅東北側の大門地区もまた、この区画整理事業に指定された地域で、同協会内の「大門第二特定土地区画整理組合」が管轄している。そして田中千鶴子さんは、まさにこの場所で生活を営み、作品を制作してきた美術家である。
 このような状況を踏まえ、田中さんはあえて、この造成地の空き地を使って作品を展示することにした。初め、高速道路に程近い公園予定地を提案したが、それはあえなく却下された。さまざまな市民感情が交差する中でこの展覧会が行われ、思わぬ波紋を呼び起こすことは、関係者たちにとって望ましいことでなかったのだろう。
 田中さんはかつて、さいたま市議会の議員だった村上明夫氏などと自然保護運動を行ったことがあった。村上氏は議員活動を通して自然保護を訴え、見沼田んぼの保護にも尽力してきた人物である。この公園の開発が行われることになったときも、田中さんたちとともに環境アセスメント条例を制定して周辺に生息する動植物の保護を訴えた。このような田中さんの問題意識は、決してにわか仕立てのものではなかったのだ。
 たとえばこの地域には、樹齢数百年を超える大木が数多く残っている。しかし、区画整理事業には「更地換地」の原則が伴う。所有する土地を別な土地と交換するとき、そこを更地にして明け渡さなければならないという決まりだ。そのため今、この地域の樹木は次々と伐採されている。
 田中さんは、作品の新たな設置場所を探すに当たり、さらに東川口駅に近いところに目をつけた。しかし今度は、ぎりぎりまでその計画を公表せず、近づいたところで一気に許可を取るつもりだ。審議の余地が増えれば、許可が降りにくくなるのは目に見えているからである。
 田中さんが行う展覧会のタイトルは「消地」。鋳鉄とステンレスで成形した作品を、この場所でインスタレーションするという。ここは大門南土地造成地区、この土地の記憶が次々と消されていく。作品には、人々が代々守ってきたこの土地への、敬意と哀悼の思いが込められている。

(090715取材)

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