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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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 わたなべ画廊は1989年に飯能市にオープンした。オーナーの渡辺典子さんは、それまで都内でOL勤めをしていたが、知り合いの陶芸家に勧められ画廊を開く決心をした。そのころは美術館にもあまり行ったことがなく、知り合いの美術家もわずかだった。当然のことながら画廊運営の知識などまったくなく、なぜ自分が画廊を始めたのか今でもよくわからないという。
 画廊を始めるなら、まずは近隣の美術家のことを知らなければならない。そこで、市内に住んでいた画家の小島喜八郎氏の協力を得ることになった。小島氏は温厚な人柄とめんどう見のよさから、県西部に住む多くの美術家の信頼を得ていた。小島氏を通して、近隣に住む加藤英吾さんや赤松功、森田順子夫妻など、心を許せる作家たちとも出合えた。
 最初の年は、1週間おきに展示を替えるというペースでとにかく1年間やってみた。貸し画廊にはしたくなかったので、すべて企画でやった。ところが、次々とやってくる新しい作品群に体が拒否反応を示すようになってきた。このままでは続かないと渡辺さんは直感した。
 次の年は夏の時期をすべて閉めてみた。すると体が展覧会のペースに少しずつ馴染んできた。年を経るごとに閉めている期間が増え、父の病気を機に、ついに開いているのが年の半分となった。常連さんたちもまた、そうした事情を理解してくれる人たちだった。
 一時期はそこそこに売れていた作品も、経済状況の低迷により売れ行きが落ちてきた。しかし、時間に余裕ができたことで別にパートの仕事がやられるようになり、その収入で画廊を維持することができた。生業を通して得た知識や人間関係も、画廊を続ける上で大きなプラスとなっている。
 現在、画廊を開けているのは秋だけだ。主な展覧会はグループの「セレクション」展と「アートスクランブル」展、作家個人に焦点を当てた企画展の3種類である。定期的に展示する作家も6、7人に絞られてきた。このペースになってから、展覧会をやるのが待ち遠しく感じられるようになったという。
 「9月の創発」のときは、森田順子さんの個展と「アートスクランブル」展が行われる。
 森田さんは、去年は、東松山の亜路麻ギャラリーにおける赤松功さんとの2人展で「9月の創発」に参加した。今回の個展では油絵と鉛筆による作品を対比させるそうだ。わたなべ画廊での個展は5年ぶりとのことで、余計に力が入る。
 もうひとつの「アートスクランブル」展は小品によるグループ展で、展示のしかたにさまざまな工夫を施す。作品はもちろんのこと、このときには画廊の空間も見てほしいと渡辺さんは意気込んでいる。

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 深谷にあるアトリエ<アール・ポシェット>を訪ねた。ここは美術家の伊藤孝さんのアトリエである。
 本棟の1階が版画の工房、2階が絵画の制作室、それにちょっとした作品の展示空間がある。1996年に建てられたメタリックな外装を持つ現代的な建物で、別棟には彫刻の制作場所もある。伊藤さんの住まいはそのすぐ前だ。
 伊藤さんは1947年、広島県に生まれた。美術大学を目指して20才のころから東京に住むようになる。さまざまな美術作品に接するうち、まず版画に興味を持つようになった。版画は単色による制作が多かったが、やがて色彩も使いたくなりガッシュによるドローイングを開始した。また書の持つ即興性にも魅力を感じ、縦横に走る流麗な線が画面に取り入れられようになる。
 80年代の前半、結婚を機に深谷市に移り住むこととなる。ところが埼玉には海がない。自宅の前に広がるのは荒涼とした葱畑ばかりだ。心が晴れない日など、生まれ育った瀬戸内の海と空が無性に恋しく思われるようになった。
 そんなある日、葱畑をぼんやり眺めていると、あたり一面がふと海の景色に見えてきた。表面上は乾いているが、その内には豊かな水分も蓄えられているではないか。これはあたかも緑の海原だ。このころから伊藤さんの作品には、瑞々しい植物のモチーフが多用されるようになった。
 母屋の南側には空き地があり、ここにはハーブや観葉植物等、多彩な草木が生い茂っている。以前は義父が農園をやっていたのだが、亡くなったあと伊藤さんが独学でガーデニングを始めたのだという。
 関東の田畑は、どこもかしこも効率を重視した四角形だ。伊藤さんはそこで、曲線のある有機的な庭を構想した。こうした「人間曲線」を持たせることで、人は人生の起伏を柔軟に受け流せるようになるのではないか。
 伊藤さんは今でも、絶えず自然との関わりを意識しながら制作している。ところがそこに現れる形態は、どこまで具象でどこまでが抽象か判別のつかないものが多い。実物を見ながら描くと、その形にとらわれて本物の印象が逆に薄らいでしまうのだそうだ。伊藤さんの絵の中では、この庭と同じように、植物のエッセンスが思い思いに自生し始めているのだろう。
 今回の展覧会は、2階の展示スペースが中心となる。また、庭を使って植物とのコラボレーションも試みる予定だ。画面の内側で展開していた有機的な世界が、ついにその枠を破り外界に飛び出してくるのかもしれない。

 


 アートプレイスKは今年の3月、浜田賢治氏の個展でオープンしたばかりだ。ここを運営しているのは近内(こんない)眞佐子さんである。「9月の創発」の期間中には、浜田氏と二村潤氏による2つの個展が開かれる。
 去年の秋、近内さんが秩父を訪れたとき、偶然、浜田氏と出合い、それから交流が始まったという。浜田氏を介して、守屋行彬さんなどの美術家とも知り合い、彼らに誘われて都内の画廊を廻るようになった。
 近内さんは東京芸術専門学校(TSA)の2期生で、そこを出たあともしばらくは作品を制作していた。17年前に自宅で造形教室を始め、この間、ものを生み出す喜びを人に伝えることに専念してきた。しかし、浜田さんや守屋さんたちとの接触を通して、ものを生み出す人間の魅力へと関心が移っていったのかもしれない。
 自分自身で何かを生み出すことはもちろん重要だ。しかし同時に、真剣に表現活動を行っている人の姿を多くの人に知ってもらいたい。こうした意識の変化が、近内さんを画廊の道へと向かわせたのではないか。
 北浦和駅から4分ほどのところにあるこのスペースも、初めは教室を拡張するつもりで借りたのだが、画廊にするため急遽、設計を変更することになった。画廊を開くことが知れるに従い、思わず多くの人たちが協力してくれるようになった。必要なことがあると、必ずそこに適任者が現れ足りない部分を補ってくれるのだ。人をつなぐという近内さんの才能が、ここにきて一気に開花したわけだ。
 オープンしてからの数か月間、知り合いの糸を手繰りながら企画によるグループ展を開いてきた。まったく違うルートで声をかけた作家どうしが親友で驚いたりと、今は人のつながりの妙を楽しんでいるところだ。そういえば、「9月の創発」で展示する二村氏も造形教室の縁で交友を持つようになった人である。
 ところで近内さんがやっている造形教室の目標は、ものづくりを通して時間を共有することである。そして、考えることと工夫することをその基本に置いている。指導者の教えることは何もなく、ただ「やってごらん」と言うだけだ。
 手がかりもないままものを触るうち、必ずそこに何かが現れてくる。そして「自分にはできる」という自信がつき、積極性が生まれるというのだ。近内さんに画廊を始めさせた最大の内的動因も、実はそのへんにあったのかもしれない。
 水曜と木曜は画廊を閉め、この日は造形教室に勤しんでいる。まったく違った環境が、自分の中でほどよくバランスを保っているのだそうだ。作品制作もそろそろ再開したいと近内さんは言うが、まだしばらくその余裕はなさそうである。
 


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