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さいたま美術展<創発>プロジェクト/Saitama Resonant Exhibitioins Project
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埼玉における美術活動の有機的な連携を目指して、松永康が、随時その状況について思うことを書き連ねてゆきます。
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2013822日、藤圭子が他界した。いちども会ったことのない人なのだが、心の奥にできた空洞をなぜかしばらくの間、消すことができなかった。
五木寛之は藤の歌を聞き、「怨歌」の誕生と言い切ったという。地の底から湧き出るような呪いの節に、忘れがたいうらみの情念を感じるのは自然な感覚である。しかし私には、うらみはうらみでもそこにあるのは「怨」ではなく、むしろ「恨」のうらみのように思えてならなかった。他者に対する怨念ではなく、自己へと向かう悔恨の情である。
藤の代表曲と言えば「新宿の女」と「圭子の夢は夜ひらく」だろう。「新宿の女」では、「私が男になれたなら 私は女を捨てないわ ネオン暮らしの蝶々には 優しい言葉が染みたのよ 馬鹿だな 馬鹿だな 騙されちゃって 夜が冷たい新宿の女」と歌われる。演歌の中でも、これほどうらみの矛先が自分自身に向けられるものもあまりない。こうしたうらみの在り様は、韓国の国民性とされる「恨(ハン)」の心性にも通じるものだ。
また「圭子の夢は夜ひらく」では、「赤く咲くのは芥子の花 白く咲くのは百合の花 どう咲きゃいいのさこの私 夢は夜ひらく/十五十六十七と 私の人生暗かった 過去はどんなに暗くても 夢は夜ひらく」となる。これを園まりの「夢は夜ひらく」と比べると、事はさらに明白だ。「雨が降るから会えないの 来ないあなたは野暮な人 濡れてみたいわ二人なら 夢は夜ひらく/うぶなお前がかわいいと 言ったあなたは憎い人 いっそ散りたい夜の花 夢は夜ひらく」。園版ではその憎しみがストレートに相手に向かっていくのに対し、藤版では一貫して自分自身へと跳ね返ってくる。
こうした場面設定には、自分を傷つけているはずの他者の存在を希薄化させるという効果が見られる。そしてある種、自閉的な世界観を構築していく。他者の介入を遮断することで自分自身を守ろうとする、無意識の自己防衛本能がそこに立ち現われてくるのだ。あの無表情でデジタルな顔つきは、その効力をさらに高めていた。
学生運動はその後、政治権力との戦いから身内どうしの内ゲバへと転化し、醜悪な自滅の道を歩んでいった。一方で早々とサラリーマン生活を選んだ若者たちは、人間関係を希薄化させながら経済大国へと邁進していくことになる。80年代以降、全国的に広まるマックの店員たちの虚無的な笑顔は、この時代を象徴するコミュニケーション・ツールとなった。そして最終的に、酒鬼薔薇聖斗のように自分自身をも「透明な存在」へと昇華させながら、世紀の終末へと突き進んでいったのである。
一から十まで 馬鹿でした 馬鹿にゃ未練はないけれど 忘れられない奴ばかり 夢は夜ひらく 夢は夜ひらく…
私の心に染み着いていた藤圭子の呪いが、ようやく今、溶け始めている気がする。
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美術館1館当たりの県民数(県民数÷美術館数)を調べてみたら、埼玉は約90万人に1館となり、全国で3番目に美術館の少ない県であることがわかりました。

       人口(千人) 美術館数  1館当たりの県民数(千人)
1長野県  2,152   32    67
2香川県  996   11    91
3鳥取県  589   6    98
4徳島県  785   8    98
5岐阜県  2,081   21    99
6島根県  717   7    102
7奈良県  1,401   11    127
8滋賀県  1,411   11    128
9愛媛県  1,431   11    130
10京都府  2,636   18    146
11岡山県  1,945   12    162
12石川県  1,170   7    167
13東京都  13,159   75    175.5
14兵庫県  5,588   32    174.6
15秋田県  1,086   6    181
16和歌山県 1,002   5    200
17福井県  806   4    202
18愛知県  7,410   36    206
19山梨県  863   4    215.75
20新潟県  2,374   11    215.82
21群馬県  2,008   9    223
22山形県  1,169   5    234
23栃木県  2,008   8    251
24富山県  1,093   4    273
25青森県  1,373   5    274.6
26海道  5,506   20    275.3
27広島県  2,861   10    286
28福島県  2,029   7    290
29岩手県  1,330   4    333
30静岡県  3,765   11    342
31沖縄県  1,393   4    348
32長崎県  1,427   4    357
33宮崎県  1,135   3    378
34高知県  764   2    382
35大分県  1,197   3    399
36神奈川県  9,048   21    431
37宮城県  2,348   5    470
38山口県  1,451   3    484
39福岡県  5,072   10    507
40三重県  1,855   3    618
41大阪府  8,865   13    682
42茨城県  2,970   4    743
43佐賀県  850   1    850
44鹿児島県 1,706   2    853
45埼玉県  7,195   8    899
46熊本県  1,817   2    909
47千葉県  6,216   6    1,036

 


戦後の日本は大方、上り坂の経済成長を果たしてきた。同じ勤務場所で一生仕事に打ち込むことのできる終身雇用制は、そのための大きな推進力となった。ところが経済成長の止まった今、多くの人々が失業の憂き目にあい、また多くの若者が就職難にあえぐという時代になった。長い間の習慣から、終身雇用制の枠に入れなかった人間は安定した生活を送ることができないといまだに信じられているようだ。
一方でバリでは、終身雇用制自体がほとんど成立していない。それにもかかわらず、異なる立場の人間がそれぞれ自律的に活動しながら、それらすべてが有機的に連関を持って循環しているように見えた。そしてその背後には、有形無形の贈与財が渦巻いていた。
日本にもかつては、地域社会の中にさまざまな慣習があり、そこを通して贈与の循環があった。ところが戦後、そうした枠はことごとく壊され自給自足が推し進められた。そこでは自分で稼ぎ、できるだけ貯蓄して無駄に使わないことがよしとされた。働いていない者に分け与えるなどもっての他だ。余剰があれば、自分の楽しみのためだけにこっそりと使うのが美徳である。
ところが、低賃金を強みとして外需を拡大させてきた日本経済も、中国をはじめとするアジア各地の新興国にその座を奪われ瀕死の状態となった。あたかも個々人が自律的に行っているように見えた経済活動は、実は発展し続ける外需産業の上でかろうじて成り立っていたのだ。不況の長期化は、その構造をうまく転換できなかったことの結果だろう。外需の欠損を補うはずの内需産業もまた、すでに充分に機能しなくなっている。
日本が経済の低迷から立ち直れるかどうかはおそらく、企業に集中していた生産活動を個人に配分していけるかどうかにかかっていると思う。言い換えれば、既得権益を減らしてでも他に仕事を回すことのできる精神的余裕を、業界人が持てるかどうかである。仕事もまた放っておくと、仕事のあるところに集中していくものなのだ。経済活動の大枠というのは、企業レベルではなく社会全体として捉えなければならない。
日本を除く多くの国には、いまだにチップという習慣がある。何かをしてもらったとき、当然のごとくいくらかの金銭を渡すという文化である。インドなどではあまりの強引さに辟易することがあるが、その点バリの人々は、バイクの運転や観光地のガイド等、自分にできることを活かしながらわずかずつのお金を得ていた。
さらにそれは人と人の間だけに限らない。朝、街を歩くと道のあちこちにチャナンと呼ばれる供え物が置いてある。いちおう神に捧げるものだそうなのだが、実際には鳥や野良犬が食べ、その残りを虫たちが食べている。要するに、すべてを人間が食い尽くしてしまうのではなく、得たものの一部を必ず必要としている者たちに回しているのだ。
「Marketing 3.0」。商品開発でもなければ消費者開発でもない、人間を開発するという第三のマーケティング。マーケティングというものを広い視野で捉え、そのシステムを壊すことなく中身を入れ替えることで再生を図る。経営学の新たな方法論を求め続けるコトラー氏が行き着いた第三の地、それがバリであったことに私なりの理由が見えてきた気がした。(おわり)

ケイコさんの生い立ちからバリでの生活の話まで、3時間余りの時間があっという間に過ぎた。帰りはケイコさんのお迎えの車でホテルまで送ってもらった。その途中、王家が所有するプリ・ルキサン美術館に寄り、翌日オープンするという展示室の準備作業を覗かせてもらった。
中庭では、まだ楽団員がアトラクションのためのリハーサルをしている。一晩中でもやっていられそうな、マッタリとした雰囲気だ。会場でロイヤル・ピタ・マハを経営しているプットラー氏を紹介され、図らずも翌日のレセプションに招待してもらえることになった。彼はこの美術館の経営者でもあったのだ。
午前10時からレセプションが始まる予定だったので、翌朝、私は少し早めにプリ・ルキサン美術館に行った。どのくらいのタイミングで行ったらよいかケイコさんに聞いたところ、これは公式行事なので時間どおりに始まるはずだから、少し早めに来た方がよいと言われていたからだ。ところがまだほとんど人が来ておらず、とりあえずオープンテラスの待合所に通された。
11時を過ぎてようやくアトラクションの民族舞踊が開始された。11時半からスピーチ。それがまたなかなか終わらず、5人すべてが話し終わったのは12時半近く。それからテープカットをして会場に通された。料理も用意されていたのだが、午後からの予定があったので私は午後1時ぐらいに会場を出た。やはりインドネシアの時間だった。
この展示室は、2005年に設立したPhilip Kotler Center for ASEAN Marketingの事業の一環として作られたという。フィリップ・コトラー氏は、ピーター・ドラッカーと並んで日本でも知られる経営学者だ。「Museum of Marketing 3.0」という展示室の名は、彼が昨年著した『Marketing 3.0』から採られている。
この本の執筆には、インドネシアのヘルマワン・カルタジャヤ氏が共著として加わっている。同展の監修者としてこの2人もレセプションに出席していた。カルタジャヤ氏がプットラー氏の一族に働きかけて、この展示室の建設が実現したらしい。ちなみにコトラー氏は、このレセプションの前日に80歳の誕生日を迎えたそうだ。
『Marketing 3.0』の中でコトラー氏は、これまでのマーケティングの潮流が、製品中心主義の「マーケティング1.0」から消費者中心主義の「マーケティング2.0」へと変化してきたことを述べる。その上で来たるべき「マーケティング3.0」は、人間中心主義になると予測する。そこでの人間は、価値の創造に対し多元的かつ能動的に関わろうとする存在として語られる。
そのようなマーケティングを実現するには、社会的責任を果たすため、企業も環境や健康、社会問題等に積極的に取り組まなければならない。実際、いくつかの先進的な企業では、すでに創造性や参加意識、コミュニティ意識といった、顧客の深層的ニーズを満たすための製品やサービス、企業文化を提示し始めている。そしてこのプリ・ルキサン美術館もまた、これまでの展開の中でバリの文化を体系化しながら、同時に観光資源としての商品価値を高めてきたと言う。
 展示室には、美術館のこれまでの歴史や、マーケティング3.0を実践している企業の紹介資料等が展示されていた。会場をスクリーンで切り分け、有機的に導線を付けた現代的なレイアウトだ。人がいっぱいで個々の内容はよくわからなかったが、上記のような趣旨は極めて興味深いものだった。(つづく)

インドネシアでは、地位が高まるにつれ名前も長くなる。基本的に姓というものがなく、カーストで言うクシャトリアの階級を持つ者は、名前の最初にそれを示す名称が付く。ウブドではアナック・アグンやチョコルダがそれに当たる。
そして最近は、いちばん下にまた別な名前をつける人が増えている。たとえば、マンダラやスカワティーというのは父の名を引き継いだもので、それを今では姓のようにして使っているという。海外に出ると姓を聞かれることが多いため、いつからかそうするようになったらしい。
バリの王族では、族内婚や多妻制が一般に行われているため、親子、兄弟、従兄といった家族関係が非常に複雑だ。だから、ふつうはみな「一族」で済ましている。そのことで一族の結束が保たれてきたのだろう。姓を用いることがなかったのもそのような理由からだと思う。しかし氏姓が与えられることで家督が明確となり、家族としてのアイデンティティが強まってくることも事実だ。
一方で平民には階級名がない。そのかわり、出生の順にそれぞれWayan(第一子)、Made(第二子)、Nyoman(第三子)、Ketut(第四子)という呼称が与えられる。そして、ふだんは互いにこの名で呼び合っている。日本で言うと、家族でもない者どうしが「ねえ長男」「なんだい次女」という感じで会話しているわけだ。
ところでウブドの街を歩いていると、何の仕事をしているのかわからない人がウロウロしているのを目にする。街にあふれる個人商店やバイクタクシーも、充分な収入が得られるほど利用されているとは思えない。いったいこの人たちは、どうやって生活しているのだろう。
さらにインドネシアでは、2000年ごろから地方分権化が進められ、ウブドのあるギャニヤール県では、地域経済の循環を崩さないため県条例によってスーパーマーケットや映画館等の出店が禁止されているという。むしろわれわれの感覚では、ショッピングセンターや工場を誘致して雇用を増やした方が、人々の暮らしが豊かになるのではないかと思えてしまう。
その一方で村人たちは、定期的な祭礼があると総出でそれぞれの役を担いながら催しを遂行していく。特に葬儀の時などは、それに係る莫大な費用を喪主がまるごと抱え込まなければならない。こうしたお金の使い方は、合理性を旨とする私たちの目からするとちょっと異様に見えてくる。
しかし実際には、まさにこの余剰の部分がバリの経済を支えているらしいのだ。お金というのは、お金のあるところに集まる性質を持っている。そこで彼らは、ポトラッチと呼べるようなこうしたお金の使い方をすることで、それを再びお金の無いところに分散させていたのである。つまり、市場とは縁のない循環型の財産移譲を繰り返しながら、旧来のバリ島の生活と文化を受け継いできたわけだ。
そんなウブドでも、近年は島外からの情報が絶えず入ってくるようになった。そのため若者たちは、祭礼等の慣習を受け継ぐのを嫌う者も増えてきている。王家にあってさえ、旧来の儀礼が徐々にあいまいになってきているそうだ。
そうした中でケイコさんは、この王家の中でも特別な存在になっている。同じ一族であることには違いないのだが、同時にはっきりと異なる文化を持った他者なのである。そして他者の視点を持っているからこそ、彼女にはバリ島民以上にバリの文化がよく見える。
ケイコさんは、自分は「枠」の人だと言った。若いころから日常の中にある規範を意識しながら生きてきた。その場その場で、常に自分はどうふるまい何を語るべきかを考えていた。それは、そこに流れる文化を自ら体現していく作業に他ならなかった。
一方で「枠」というのは形式のことであり、その内側に含めるものまでは規定しないという性質がある。言い換えればそれは、物事を円滑に循環させるための一種の通路でもある。だから同じ作法であっても、時代や地域によって随意に意味を変えていくことができるのだ。
バリ島の経済も今、資本主義の影響で大きく揺れ始めている。それは、民主化のひとつの流れとして避けられないものなのだろう。そうした中でケイコさんの「枠」意識が、この土地の規範を壊すことなく、その中身を柔軟に入れ替えながら新たな段階へと進めさせるのではないか。そしてそれが、バリがケイコさんを呼び寄せた理由であり、ケイコさんがバリに留まり続けた理由でもあったのだと思う。(つづく)
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