本展のちらしには次のような趣旨文が書かれている。「バブル期以降の美術をめぐる経済の肥大と衰弱。そしてその波の中で、多くの美術家や美術館員が指針を見失」い、「その自己崩壊のなかで、美術思想は衰弱し、逆に、それに反比例するかのように、美術作品の極端な商品化、状況のコマーシャル化が進行していった」。「美術が今取り戻さなければならないのは、表層の快楽ではなく、闇を含めた存在の全体性の回復」であり、「それをなしうるのは、ギャラリーでもなく、美術館でもなく、作家自体の行動なのだ」。だからこそ「表現者の表現の原点に還って作家活動のできる場をつくる」ことが必要なのだと。
美術は経済と深い関りを持ちながら展開している。戦後、多くの美術家たちは、教職に就くことで公的な助成を受け、その報酬を制作発表活動に振り向けてきた。バブル期には、公共事業が模型製造等の需要を生み、その利潤に浴した美術家たちは一過性の大がかりな作品を制作することができた。しかし彼らは、その営みがどのように社会に還元されていくのかということにあまり関心を払わなかった。戦後、人々の消費意欲は膨張の一途を辿ってきたが、作品の制作発表もまた、美術家にとって消費活動の一環となっていたのだ。
1990年代に入ってバブルが崩壊し、人々はようやく美術を流通させることの必要性を認識するようになった。そのひとつの流れとして、国や自治体が主導して、地域の活性化や、子どもや老齢者といった社会的弱者への福祉施策として美術を有効利用しようとする方向が生まれた。これらは厚生経済的な見地からの運用と言える。一方で前述したように、国際的なアート・マーケットが国内の美術品の価格に影響を及ぼすようになった。こちらは投機経済側からの働きかけにより今後も展開していくだろう。
しかし注意しなければいけないのは、ここで注目されているものはいずれも美術の一側面であり、こうしたアプローチでは決して「闇を含めた存在の全体性」に辿り着けないということである。主体が別にあり、それに対する補完的な位置づけを求める限り、美術は永遠に全体性を持つことができないのだ。美術は1人の人間と同じように、その内で完結していなければならない。しかし一方では、人がひとりでは生きられないように、美術もまた他の社会活動と行動を共にする必要がある。問題は、この矛盾をいかに克服できるかだ。
この世に個という意識が生まれて以来、それは共同体と利害を対立させるようになった。1人の人間は、この2つの局面に対して異なる価値観を構築していかざるを得ないのである。そして同時に、自己を共同体の中にいかに位置づけるかが新たな課題として与えられた。ある者はそこで自己を消滅させ、ある者は逆に集団を自らに従わせ、またある者は自己を分裂させることで対処してきた。さらにその最終的な解決方法を、自己実現という言葉で語る者も現れた。
個と集団の造形もまた、個が意識されるようになってから絶えず繰り返されてきた葛藤である。宗教や装飾から造形をいかに自律させるか、マスプロダクツからいかにデザインを解放できるかといったことは、個と集団の対立のほんの一例だ。そして公園や工場といったものもまた、都市の発展に向けて社会的に構想された新たな集団造形物だったのである。「引込線」の発案者たちが行ってきた公園や廃工場での展示活動は、まさにこの今日的な対立の現れなのではなかったか。
本展は、そのタイトルが示すとおり、来年から始まる「所沢ビエンナーレ」のプレ展として行われている。しかし現実の話、予算的なことも体制的なことも、今のところまったく目処が立っていない。西武鉄道が、継続的にこの場所を提供してくれるかどうかも定かではない。しかし、個と共同体との距離が埋めようもないほど開いてきている今日、この2つの力の衝突は、その両立を模索する上で欠くことのできない試練なのだ。そこで真に試されるのは、人がどこまで人を信じられるかである。(おわり)