ところで、所沢野外美術展が幕を閉じた後、途中から参加していた佐々木実さんが事務局となり、所沢市彫刻家連盟の主催で「所沢野外彫刻展」として新たなスタートを切っていた。こちらは団体展系の美術家が多かったため、スタジオで制作した作品を現場設置する彫刻作品が主流であった。さらに1993年には、埼玉で国民文化祭が行われたのを機に、所沢市が主催して「野外彫刻展」が再々出発した。そしてその担当となったのが、所沢市教育委員会の関谷英雄さんであった。
私は「引込線」の会場で久々に関谷さんに会った。「引込線」は、美術家たちが組織する実行委員会と所沢市が共催となっており、関谷さんはその市側の窓口となっていた。私が関谷さんを初めて知ったのは、埼玉県立近代美術館の「移動美術展」を所沢でやったときだった。「移動美術展」とは、美術館が市町村と共催し、地域の美術展示施設において収蔵品を展示する、一種のアウトリーチ活動である。
所沢にはミューズという文化センターがあるが、そこの市民ギャラリーは通常、貸し展示室として使用されている。ミューズには当時、若山さんという事業課長がいて、しばしば彼の働きかけで現代美術を紹介する展覧会が開かれていた。私もその頃、出店久夫さんが中心となってやった「振り向けば絵画は芽生え」という展覧会を手伝ったことがある。
さて、そのミューズで1995年10月、「技法の発見・現代美術のおもしろさ」と題して移動美術展が実施された。そこに作品を出品していた戸谷成雄さんと出店久夫さんが所沢在住だったため、会期中、彼らに会場に来てもらい、私が司会となって対談を行ったわけである。何の話をしていたか定かでないが、中で戸谷さんが「現代美術は、埼玉だとか所沢だとか地域を限定していてはだめなんだ」というような発言をして、この人の意識はすでにグローバルなんだとつくづく感じたのを憶えている。
一方で、彼らの話を聞いていた関谷さんはもっと覚めていて、こうした市内の美術家たちを一種の文化資源としてもっと有効利用できないかと考えるようになったらしい。事実、所沢市には、全国的な活動を行っている美術家が数多く住んでおり、西武鉄道沿線にまで枠を広げればさらにその数は倍増する。しかし折からの税収の落ち込みは著しく、市ではその後、自主的な展覧会を続けることがいよいよ難しくなくなっていった。
先の四者会談があって間もない2007年の夏、所沢に廃校となった小学校があることを戸谷さんが聞きつけ、すぐに遠藤さんと中山さんを伴って市の教育委員会へと出向いた。そして教育長とともにそこで彼らを迎えたのが関谷さんだった。校舎跡は社会教育施設への転用がすでに決まっており使うことができなかったが、話の中で新たに、所沢駅に隣接した西武鉄道の車両工場跡地のことが浮上してきた。
関谷さんはさっそく西武鉄道と連絡をとり、中山さんたちとともにその場所を訪れると、そこには贈答用の荷物が山と積まれていた。何かと思えば、この施設は歳暮と中元の期間中、西武系列店の発送用倉庫として使用されているらしいのだ。しかし、そうした人工物の集積をものともしないその無骨な建造物の姿に、一堂はすっかり魅入られてしまった。
彼らは西武鉄道の所沢本社を訪れ、車両工場跡地が空いている期間、展覧会の会場として無償で提供してくれるよう掛け合った。会社側は、催しの内容にはあまり関心を示さなかったものの、市が責任を負うのならばと、8月末から9月にかけての会場提供を快く受け入れてくれた。
それにしても展覧会の開催まであと1年もない。まず展覧会の主体となる実行委員会が結成され、中山さんが会長となり、遠藤さんと戸谷さんが副会長、そして多和さんと伊藤誠さん、高見沢文雄さん、建畠朔哉さんがそれぞれ実行委員となった。それぞれ信頼する作家たちを推薦し、徐々に展覧会の形が見えてきた。
会場は無償で提供を受けられたものの、運営費の当てはまったくない。助成金の申請時期もすでに過ぎている。加えて、市と西武鉄道との契約が成立するまでは主催者の名称が使えず、企業協賛の働きかけも行えない。武蔵野美術大学と資生堂だけが内々に協賛を約束してくれたが、これではまだ不充分だ。
そこで、この展覧会の参加者には1人5万円の出品料の支払いが課されることとなった。そういえば所沢野外美術展が行われていた時代には、美術家は当然のように自腹を切っていたものだ。さらにこの展覧会では、同額の参加費の支払いを条件として記録集への執筆者も募ることとした。展覧会への執筆参加というのも、これまであまりなかったやり方である。そうした努力の末、16人の出品者と15人の執筆者が同展への参加者としてエントリーされることとなった。(つづく)